ゴキゴキ殲滅作戦!

ゴキゴキ殲滅作戦!

念のために言っておくが、私はゴキブリではない。
さらに念のために言っておきますが、このブログはコックローチやゴキブリホイホイとは何の関係もありません。
本と映画と渋谷とフランスについての日記です。

『デモクラシーの擁護/再帰化する現代社会で』(ナカニシヤ出版、2011年)第四章「再帰性とデモクラシー・もう一つの起源」(著者:宇野重規東大教授)を再読しました。前回赤ペンでチェックした箇所とその周辺だけの「斜め読み」です(だから以下の要約は間違っているかもしれませんw)。

 

著者はまず、アメリカの政治哲学が専らリベラリズムの枠内で展開されたのに対し、フランスの政治哲学はマルクス主義および全体主義との対決を重要なモチーフとしていることを指摘する。その上で、フランス革命を受けて生まれたフランス・リベラリズムの思想(トクヴィルやコンスタンに代表される)が、1980年代になって再評価された点に注目する。

 

著者によれば、このリベラリズムの特徴は、「(アメリカ・リベラリズムのように)人権の担い手としての(非時間的で)抽象的な個人」から出発するのではなく、「時代や社会の状況と分離」することのできない「社会的存在」としての「個人」を前提しつつ議論を進めることである。そこにおいて「個人の自律」と「社会の自律」は密接に関連しており、後者なくして前者を確保することは不可能である。「社会の自己コントロール能力の向上(=デモクラシーの改良)なくして個人の自律もありえない」と考えるのである。

 

こうした視座の下、著者は80年代以降のフランスの四人の政治哲学者たちを紹介します。コルネリュウス・カストリアディス、クロード・ルフォール、マルセル・ゴーシェ、ピエール・ロザンヴァロンの四人です。彼らに共通しているのは、通常の「政治(=議会や政府の活動、マス・メディアによる批判など)」とは区別された(それぞれ呼び方は異なるが)「政治的なもの」を探求することである。ここで「政治的なもの」とは、その政治社会を成立させている「構成原理そのもの」、社会の構成員たちが前提している「共通の基盤」、「人々の活動や言説を束ねている」「総合的な解釈枠組み」のことである。私なりに換言すれば、それは「その政治社会における究極的『正義』」と言ってもいいでしょう。(以下、著者は明言していませんが)政治哲学の使命は、その政治社会の構成原理である「政治的なもの」を析出し、それを検証し、もし「政治」が「政治的なもの」を裏切っているなら「政治」を修正するよう進言し、もし「政治的なもの」そのものが不正義を含んでいるのなら、それを指摘し、そのような不正義を除去ないし(それが不可能なら)緩和するよう提言することなのである。

 

勉強にはなりましたが、この手の「紹介」は、視野を広げることには役に立っても、実際に彼らの原典を読まない限り、それ以上の効果はありません。そして私としては、彼らよりむしろ、ドゥルーズやジャン・リュック・ナンシーの方に触手が伸びてしまいます。

 

(承前)最後に「絶対的民主主義」。アントニオ・ネグリ=マイケル・ハートによれば、「帝国」とは世界大に広がる外部なきものであって、「グローバルな交換を規制する政治主体であり、世界を統治する主権権力である・・・帝国は、権力の領域的中心を持たず、固定した境界や障壁に依存しない。それは脱中心的・脱領土的な」「政府なき統治」の装置である。暴力的に単純化して言えば、それはグローバルな経済と政治権力が合体した「世界の全体」である。こうした「帝国」を支えると同時に解体へと導き、新たな世界を創造する主体が「マルチチュード」である。それは一方で特異性・個別性が維持される「多」、他方で未来に向けて「共同の政治的プロジェクト」を志向する「共」によって特徴づけられる。これも単純に言えば、グローバルな資本・権力=「帝国」に抵抗する全世界の人々のネットワークのことである。著者はまず、そのようなマルチチュードの始動が「混沌を生む可能性」を指摘する。それは「共同のプロジェクト」に結集するのではなく、「万人の万人に対する闘争」に至るかもしれない、と言うのである。さらに、国民国家、民族や人種、宗教共同体など、より閉鎖的な集団化に執着する人々は(「外部」なきはずの)マルチチュードの「外部」に位置することになり、「反-帝国」の政体構成から排除されていく。他方で著者は、国民国家の体制下で「サバルタン(=自らの声を持たない下層階級の人たち)化」された人々の声を、マルチチュードは聞き取ることが出来るのかと疑問を呈します。

 

われわれは国民国家という「故郷」を喪失し、次のような両義性を抱えた者である。すなわち、一方で放浪者となるか、失われた「故郷=国民国家」を再興するか、他方で「故郷」から自由になり、新たな第二の故郷を創設する可能性に賭けるか、という両義性である。われわれはこの両義性を受け入れ、様々な事情にある多様な他者たちとの間で対話を継続し相互に変容していくデモクラシーによって、共存の道を模索していかなければならない、と著者は最後に結びます。

 

勉強になりました。

 

ネグリ=ハートについては、この夏休みに『帝国』をざっと読み返し、継いで『マルチチュード』と『コモンウェルス』を読みましょう。

 

『デモクラシーの擁護/再帰化する現代社会で』(ナカニシヤ出版、2011年)第二章「政治共同体の構成と現代デモクラシー論」(著者:山崎望/現在は中央大教授)を再読しました。前回赤ペンでチェックした箇所とその周辺だけの、一種「斜め読み」です。

 

著者はまず、「第二の近代」における世界秩序の変容と、それに伴うデモクラシーの危機について分析します。「われわれ=国民」と「国民国家」の自明性が解体する中で、それらに基づく「ナショナルなデモクラシー」もまた機能不全に陥っている、と言うのです。

 

その上で著者は、新たなデモクラシーの可能性として三つの選択肢を検討する。デイヴィット・ミラーの「リベラル・ナショナリズム」、ハーバーマスの「熟議民主主義」、ネグリ=ハートの「絶対的民主主義」(←この呼称が適切であるか否かは議論の余地がありそうです)である。

 

まず「リベラル・ナショナリズム」は、「国民」という概念の作為性を認めた上で、それを「最適の現実」とみなし、政治的主体としての「国民」の必要性に訴える。それは民族的・文化的少数派の排除を直接に志向するものではないし、「国民」の内容や定義は「熟議」を通して変化しうるものであるとする。しかしながら、著者はこの政体構想を却下する。それは否応なしに「国民」から排除される人々を生み出すし、「(正統な)国民」と諸マイノリティとの間に序列を生じさせる危険性も高いからである。さらに、「国民」の同質性を前景化することは、世代や階級など、その内部の差異や多様性を隠蔽・抑圧するリスクも存在するからである。また、著者によれば、この構想が想定している諸条件が妥当するのは、ほぼ西欧先進国に限られており、それを世界秩序構想として提唱するのは欺瞞である(著者は具体例を挙げていませんが、例えば中東のクルド人居住地域や深刻な民族対立が存在するアフリカ諸国を想起すればよいでしょう)。 

 

次に「熟議民主主義」はその政治的主体として、「市民」を析出する。その際、個人の社会的地位、職業、民族、宗教やジェンダーなどの「属性」は括弧にくくられる。「市民」とは、様々な場面(それは場所・時を限定されない)で形成される「公共圏(=公共的な意見が構成される場)」において、自らが関心を持つ事柄についての熟議に参加する者の謂である。各「市民」は熟議を通じて自らの意見を修正しつつ、最終的な合意を目指すことになる。しかしながら著者によれば、そのような「熟議民主主義」もいくつかの「排除」を含んでいる。まず、熟議のための資源を持たない者、あるいはそのように判断された者は排除されるリスクがある。この民主主義は「冷静さ」や「理性的、論理的なコミュニケーション能力」を要請するからである。さらに、この民主主義は、各人が熟議を通して自らの選好やアイデンティティをより普遍的な合意へ向けて変容させていくことを前提するが、そのような変容に断固として抵抗する人々も存在する。著者はそうした理由から、この政治的立場にも与しない。

 

長くなったのでここで一旦切ります(この項続く)。

 

(承前)最後に著者たちは、上記の三つの困難に対処するためのオルターナティヴとして、ネオ・ナショナリズムとリベラリズムを検討します。

 

まず著者たちは、前者(彼らは言及していないが、例えば「アメリカ・ファースト」)が、三つの困難に対するある程度の「解毒剤」になりうることを認めるが、それは決定的なものではないこと、それが掲げる諸政策には現実性がないこと(ex. 移民を制限しても構造的な失業問題は解決しない)、それが包摂と排除にまつわる「暴力」を内包しており、かえって問題を悪化させるばかりであることを主張する。

 

リベラリズムに関しては、「リベラル・デモクラシー」という言葉があるように、著者たちはそれがデモクラシーと補完的な関係にあることを指摘する。「個人の自由や権利の実現のためには、それを可能にする政治制度としてのデモクラシーが不可欠であり、逆にデモクラシーが健全に営まれるためには、個人の基本的な自由と権利が保障されていなければならない」からである。しかしながら、前世紀の終盤以降、フリードリヒ・ハイエクの「小さな政府」論に支えられた「新自由主義」の思想が、デモクラシーの適用領域を制限しようと試み、後者との間に新たな緊張関係を生んでいる。

 

そうした認識に基づき、著者たちは前記の「三つの困難」を巡って、リベラリズムを検討します。まず第一の困難(個人の負担増大)については、リベラリズムが個人の自由な選択を絶対視している以上、それはそもそもそのことを問題と見なしてはいない。次に第二の困難(私的問題と公的問題の媒介)に関しては、リベラリズムがそれを等閑視していないことは認めつつ、公私の区分それ自体が「熟議=デモクラシー」によって常に問い直され、その境界線が引かれ直されなければならないことを強調する。第三の困難(異なる価値観の衝突)については、リベラリズムは「多元的な世界観・価値観の間での対話と交渉の可能性」を考慮していないと考える。その上で、著者たちはデモクラシーが「対話と交渉を通じ、個別の世界観自体が変化していく可能性を重視」します。

 

このように、著者たちによれば、再帰的近代が抱える諸困難に関しては、リベラリズムの有効性もまた限定的であって、「リベラルな価値をよりよく実現するため」には、「デモクラシーの可能性をさらに模索することが不可欠」なのである。

 

以上、再読して大変勉強になりましたが、二点だけ指摘しておきましょう。

 

まず、再帰的近代化がもたらす「三つの困難」は、アンソニー・ギデンズやウルリッヒ・ベックの著作に基づいて列挙されているだけで、その三つしかない(あるいはその三点が最重要である)ことが証明されているわけではない。より具体的に言えば、地球温暖化や経済格差の拡大(それらも再帰的近代の産物であろう)を解決・緩和するためにデモクラシーが有効であるかは議論されていない(もとより、そのために権威主義的政治を選択することは論外であろうが)。

 

第二に、現代を「再帰的近代」と定義することが妥当なのか否かには、議論の余地がありそうだ。実際、アントニオ・ネグリは『さらば、“近代民主主義”』で、近代とポスト・モダンとの間には明らかな「断絶」があると書いていた。共産主義を目指すネグリと本書の著者たちの視点の違いから来るのだろう。

 

他方で、柄谷・浅田はどこかのシンポジウムで(政治・社会についてではなく、思想や文化についてだが)、「モダンの後にポスト・モダンがあるのではない、それはモダンをずらしたところにある」という趣旨のことを述べていた。この「ずらす」という表現(それは思想・文化に関しては理解できるが)を政治哲学に適用すると、どんな結果を生むのだろうか。じっくり考えてみたい。

 

宇野重規・田村哲樹・山崎望著『デモクラシーの擁護』(ナカニシヤ出版、2011年)第一部「共同綱領/デモクラシーの擁護に向けを」を再読しました。前回赤ペンでチェックした箇所とその周辺だけの「飛ばし読み」です。

 

ここで著者たちは現代を「後期近代」あるいは「再帰的近代」と定義する。それは発展を遂げた近代が、自らに対し再帰的にその影響を及ぼし、自らを変容させる時代である。著者たちはあまり具体例を挙げていないが、例えば、情報化した社会が情報強者と情報弱者を作り出すとか、グローバル化の進展が移民問題を引き起こすことなどを想起すればよいだろう。

 

著者たちによれば、そうした再帰的近代はそこで生きる諸個人にさまざまな困難をもたらしている。まず、「個人の負担の増大」。つまり、依拠すべき絶対的な価値が失われた世界で、諸個人は自らの責任で意志決定をすることを強いられる、ということである。第二に、「私的問題と公的問題の媒介」の衰退、消滅。ほとんどの問題が個人で対処すべき「私的」な問題とされてしまい、それが「公的」な問題としては提起されず、結果として政治の場面そのものが縮小してしまう、ということだ。第三に、異なる価値観の衝突。従来は「伝統」の存在によって、他の価値観や生活様式は単に「なじみのないもの」、自分とは関係のないものとみなされていた。そうした伝統が自明視できなくなったことにより、異なる価値観同士の衝突が激化し、和解不能な紛争・対立に至ってしまう、というのである。

 

再帰的近代化が生じさせるこれら三つの困難を前に、著者たちはデモクラシー、特にハーバーマス流の「熟議民主主義」の有効性を主張します。

 

まず、第一の困難に対して、私たちはデモクラシーを通じて、個人の意志決定のための「範例と形式」を形成することができるだろう。それは具体的には、「連帯」「信頼」「社会的紐帯」などである。さらに、デモクラシーによって意志決定そのものが集合的に遂行されることもあるだろう。

 

第二の困難については、デモクラシーは私的・個別的な問題を公的で集合的な問題に変換する機能を持っている、と考える。著者たちはそれに加えて、公私の区別そのものが熟議によって決定・変更されるべきものであることを力説している。

 

第三の問題について、著者たちは、デモクラシーは異なる価値観を和解・調停する役割を果たすことができる、と主張する。デモクラシーを介して、多元的な価値観の間での対話と交渉の可能性が生じるし、そうした対話と交渉を通じて、個別的な価値観が変化していく可能性も生まれるだろう。

 

長くなったので、ここで一旦、終了します(この項続く)。

 

学期中はまとまった時間が取れず、読書にあてる時間もほとんどない。今年は土・日・月と三連休になるのだが、土曜は前日の授業の「後片付け」(←ペアを組んでいる先生への報告、配布したプリントを大学のサイトにアップし、場合によってはそのプリントを若干修正する、など)をし、読み残した新聞記事を読みきると、もう夕方になっている。さらに英語とフランス語の語学研修(土・月は英語を一コマずつ、日曜はフランス語を二コマ)もある。

 

だから今年は学期中は新しい本を読むのは諦めて、以前読んだ本を読み返そうと思っている。本の全体を読み返す必要は無いだろう。赤ペンでチェックした箇所とその周辺だけを読めば、大まかな内容は分かるから。

 

と言うことで、福田和也さんの『日本の近代/上・下』(新潮新書)を読み返してみました。歴史書(←事実の記述が大半を占める)という性質上、今回は飛ばし読みではなく、全体を読みました。

 

前回は2013年の7月に読んだのですが、内容については全くと言ってよいほど覚えていなかった。

 

記述は多岐にわたるので、二点だけ書いておけば・・・

 

日露戦争がほとんど「総力戦」だったことには驚いた。

 

アジア太平洋戦争前および戦中の政府と軍の迷走ぶりは、いろいろなところで読みましたが、本書でもその問題は詳細に語られています。明確な「国家意志」といったものが無い。陸軍と海軍が対立していただけでなく、陸軍・海軍そのものの中でも対立があった。

 

著者の博識ぶりには、毎度のことながら驚嘆します。

 

勉強になりました。また3年ほどしたら、読み返そうかと考えています。

 

綿矢りささんの『激しく煌(きら)めく短い命』(文藝春秋)を読了しました。

 

「文學界」連載時(2020年8月~24年7月)のタイトルは「激煌短命」で、単行本は昨年8月に刊行。私はここ10年くらい小説の単行本は買わないようにしているのですが(嵩張るし、積ん読しているうちに文庫になったりするから)、世田谷区立図書館で予約したら20冊所蔵で予約順位が168位、目黒区立図書館では10冊所蔵で77位。やむなくアマゾンで購入して読みました。

 

第一部「13歳、出会い」、第二部「32歳、再会」の二部構成。一貫して主人公の視点から一人称で語られますが、おそらく物語の「現在」は第二部にあって、第一部は大人になった主人公の「想像を交えた回想」です(第一部第一章の冒頭に「あのころ、私たちは良い香りなんかしなかった・・・」とある)。

 

主人公の悠木久乃(ゆうき・ひさの)は中学校入学式の当日、ほどけた髪をゴムで束ねてくれた朱村綸(あけむら・りん)と親しくなる。二人で会って遊ぶ日々を重ねるうち、久乃が綸に抱く友情はしだいに恋へと変容する。綸の気持ちも同様で、二人は互いに手を握り、髪を撫で合い、ついには抱き合ってキスをするまでになる。

 

しかし林間学校でのある出来事から、二人を「レズ」とする噂が広まり、久乃はクラスでいじめの標的にされてしまう。一旦距離を取ろうとする久乃とそれでも自分の気持ちを押し通そうとする懍。二年生の秋、些細な誤解から喧嘩別れをした後も、互いに気持ちの整理がつかない二人は、卒業式の後でとうとう取っ組み合いの喧嘩となり、顔を引っ掻かれた久乃は鼻筋の脇、右目の横に少し深めの傷を負ってしまう。

 

第二部。32歳になった久乃は大手広告代理店の営業部で働いている。枕営業までして、営業成績はトップである。右目の横には眼鏡跡のような小さな傷跡。彼女が中学の同級生で綸の幼なじみでもある「橋本くん」のインスタグラムを偶然見つけてフォローしていると、彼の投稿の中に「りん」という名前を発見するのだった・・・

 

旧正月を迎える深夜のカウントダウン等、中学時代の二人のデートの場面(in 京都)が美しい。

 

性交渉の描写は前作『生のみ生のままで』と同様、相当に「過激」だが「いやらしさ」を感じない。

 

また、前作では主人公は告白される側でしたが、本作では告白する側になっています。

 

「綸が私の頭を慰めるように撫でた。『私、綸がいないとだめなんだよ。大人になって再会して、また好きになった、あなたを』。綸の手が止まり、私の頭から離れていった。『そんな訳無いやろ。だって私らもう大人になって、分別もつく年になったし』。『分別がついた今でも、今の綸が好きなの』。『聞きたなかった』。綸がベッドから離れる気配がした。『驚きすぎて、もう。友達と思ってたのに、裏切られた気分。帰るわ私』。バタンとドアの閉まる音が部屋に響き、私は呆然として動けず、しばらく扉を眺めた。」(537頁)

 

それだけに恋する女の情熱、喜び、不安と逡巡、そして絶望が丁寧に描かれて、明確な形を取って浮上します。

 

希望を感じさせるラストシーンもいい。

 

全体としていい作品に仕上がっていると思う。

 

ただ、恋愛・性愛の他に「差別(性的マイノリティー、女性、外国人等への)」や「命」などのテーマも盛り込んでいて、恋愛小説としての純度・密度は『生のみ生のままで』の方が勝るのではないでしょうか。

 

さらに、「母方の祖母」や「父親が家に帰らない理由」など、第一部と第二部とで記述に矛盾する点があり、これが単なる過誤なのかそれとも意図的なもの(第一部は「想像を交えた回想」なので)なのかは、文庫になった際に改稿されるか否かなど、今後を待たなければ断定はできません。

 

私個人としては前作の方が好きですが、人によっては本作の方を高く評価する方もいるかもしれません。

 

綿矢りささんの『生(き)のみ生のままで』(集英社文庫)を読了しました。2019年に刊行され、「島清(しませ)恋愛文学賞」(←初めて知った)を受賞した作品です。

 

主人公の逢衣(あい)は25歳の平凡な女性会社員。夏休みに恋人の颯(そう)と出かけた秋田のリゾートホテルで、彼の幼なじみ琢磨(たくま/そのホテルは颯と琢磨の父親が勤務する会社の所有)の恋人で同年齢の彩夏(さいか/売り出し中の女優)と出会い、親しくなる。

 

東京に帰ってからも逢衣と彩夏の付き合いは続くが、しばらくすると琢磨が彩夏から別れを告げられたことを知る。「好きな人ができた」と言うのである。真相を聞きたいと、彩夏の招待を受けて彼女のマンションを訪問する逢衣。ところが、彼女は寝室で彩夏に強引に唇を奪われてしまう。

 

「腕を伸ばし私の後ろ首をつかんだ彩夏が急に私に覆いかぶさってきて、短く息を吸いこんだあと唇を私の唇に強く押しつけた。変な冗談、とりあえず笑って避けようと顔を背けるが、間近で彩夏の息を呑む音が聞こえてまた唇を奪われる。・・・『どこにも行かないで、一人じゃとてもやっていけない。こんなに逢衣が好きなのに・・・ねえもう好きで好きで抑えられないよ。逢衣を見るだけで身体の細胞が全部入れ替わってしまうほど好き。』」(上巻91~92頁)・・・

 

これほど濃密な恋愛小説を読んだのは初めてです。「他の誰でもない、あなたの心が欲しい、あなたの身体が欲しい」といった、性愛の情念が全編にみなぎっている。

 

私は著者の描写力をかねてから高く評価していましたが、上の引用部分を含むいくつかの場面は、壮絶なまでの臨場感をもって迫ります。

 

観音崎でのラストシーンは息を呑むほどに美しい。

 

単なるレズビアン小説ではありません。ゲイ、レズ、ヘテロ等の区別を超えた、性愛の「本質」(←本質的ならざる「本質」)を追い求めた傑作だと思います(註・いかなる「本質」をもすり抜ける、あるいはいかなる「本質」をも攪乱することが、性愛の「本質」なのです)。

 

絶対にお薦めですね。

 

 

3時間半後の追記

なんとなく余韻に浸りたくて、適当に読み返していたら気づきました、上で「あなたの身体が欲しいといった、性愛の情念」を感じた理由。性交渉の描写が精緻を極めるばかりか、それ以外の日常生活の場面でも、逢衣の目に映る彩夏の身体の描写が異様なまでに克明なのです。「ねっとり」とした視線を送っているんだろうなぁw、と。これは同性愛小説だから不自然に感じないのであって、こんな風に異性愛を描いたら、相当に「いやらしく(=ほとんどポルノに)」なってしまいそうに思います。

 

アントニオ・ネグリの『さらば、“近代民主主義”』(杉村訳、作品社、2008年)を読了しました。10年ほど前、マイケル・ハートとの共著『帝国』(←世界的ベストセラーです)を読んで興味を持ち、その後何冊か購入して「積ん読」状態だった本の一冊です。

 

2004年~2005年、パリの「国際哲学コレージュ」で行われた講義の記録。「民主主義が終わる」という内容かと思って読み始めたら、全く当てが外れて、「ポスト近代の民主主義=絶対的民主主義」についての本でした。以下、感想を列挙します。

 

・極左(←著者はイタリアで収監されたことがある)特有の悪文で、記述は一貫して抽象的。具体的な説明はほとんどない。翻訳もかなり生硬。意味不明の文が多く、結局、分かる(ような気がする)箇所だけをつなげて、「多分、こういうことを言っているのだろう」と想像するしかない。

 

・現代を「ハイパー近代(=後期近代・再帰的近代)」と考える見方がある。ドイツの思想家ウルリッヒ・ベックやイギリスのアンソニー・ギデンズが提唱した見解で、日本でも宇野重規さんや森政稔さんが採用している視座である。この見解によれば、「近代」が徹底化され、その(悪)影響を直接被っているのが「現代」だ。ネグリはそのような見方を否定し、「近代」と「ポスト近代」との間には大きな「断絶」があると考える。彼によれば「ポスト近代」は、「非物質的労働(=頭脳労働)」「生権力」「グローバリゼーション」によって特徴づけられる時代である。他方で、柄谷・浅田は「ポスト・モダン」(←直接的に政治や社会を指しているのではなく、「ポスト・モダンの思想」のことだが)を「モダン」の「後」ではなく、「モダンをずらした」ものと捉えていたように思う。この問題に関しては、少し考えてみたい。


・ネグリは「マルチチュード」について具体例を挙げている。フランスの五月革命(1968年)や年金改革に反対する運動(1995~96年)の参加者たちである。『帝国』を読んだときは、「マルチチュード」とは「ネットワークで結ばれた全世界の一般市民」という理解だったので、「そんなものが本当に連帯できるのか」と思ったが、上記のような突発的・自然発生的な運動の主体のことならば、納得できる。

 

・著者は「生権力」が機能するときには必ず「敵対性・抵抗」が生ずると主張するが、具体例が挙げられておらず、全く理解できない。上のような年金改革に対する反対運動ならば、それを「抵抗」と呼ぶことができるだろう。しかし、健康診断や医療行為、あるいは衛生状態の改善(←すべて生権力の行使です)に対する「抵抗」とは、一体何のことだろう。もちろん、生権力は単独の個人が持つ「特異性」にまでは及ばないが、それを「抵抗」とは言わないだろう。

 

『帝国』は分かりやすかったように記憶していますが、次に本書を選択したのは「失敗」でした。『マルチチュード』(←これもハートとの共著)の方を先に読むべきでした。

 

ヴォルフガング・シュトレークの『資本主義はどう終わるのか』(村澤・信友訳、河出書房新社、2017年)を読了(したことにw)しました。

 

著者は(本書「あとがき」には経歴が紹介されておらず、ウィキペディア日本語ヴァージョンにもないのですが)、1946年生まれのドイツの社会学者で、元ケルン大学教授。本邦では本書の前に『時間かせぎの資本主義』(鈴木訳、みすず書房、2016年)が出ていて、この本はその「続編」という位置づけのようです。

 

60頁もある「序文/資本主義――その死と来世」と11の章(それぞれ個別の論文)からなる論文集で、私は最初の三つの論文と序文(訳者の勧めで最後に読みました)だけ読んで、「読了」です(残りはヨーロッパ社会・経済についての「具体的な」分析のようなので)。

 

シュトレークは資本主義を単なる経済システムではなく、「無際限に進行する民間の資本蓄積」に基づく「社会秩序であるとともに生活様式」と定義します。

 

その上で彼は、現在の最先端資本主義諸国における三つの「長期的傾向」に着目する。経済成長率の低下、政府・民間における膨大な債務、そして経済格差の拡大である。反復する経済危機や民主主義の劣化など、それらに付随する諸問題にも言及した後、エリートたちもそうした問題を解決する手段を知らないことを明言する。このことから著者は、近い将来における資本主義の「死」を予言します。ここで言う「死」とは、ひとつの「出来事」ではなく「過程」であって、資本主義は「長期にわたって苦しみながら朽ちていく」。そしてその後に到来するのは、「別の秩序ではなく無秩序と混乱」だと言うのです。

 

そうした事態が生じたのは何故なのか。かつてカール・ポランニー(1886-1964)は、三つの「偽りの商品」を列挙した。労働・土地(自然)・貨幣である。これら三者は厳しい制限の下でのみ商品として扱うことが許されるものであって、もしも全面的に商品化されてしまったら、それ自体が「破壊されるか、あるいは利用不可能になってしまう」。ところがグローバリゼーションの進展によって、「それらの領域を完全な市場化から守るための諸制度は次々と破壊されている」。

 

換言すれば、資本主義の市場経済は、各国政府による規制、労働組合や社会主義思想など、市場経済を抑制するものによってこそその安定性を維持してきた。ところがグローバル化した市場は、そうしうたものを消去し、あるいは無効・骨抜きにしてしまったのである。著者は特に「労働」を例にして解説しています。労働規制の撤廃、発展途上国の労働者の劣悪な労働環境、不当な低賃金で働く移民たち、等々です。

 

前回紹介したフレイザーとは異なって、シュトレークは「社会主義」に希望を託してはいません。そのため、内容は徹底的に悲観的になっています。

 

・・・原著が出版されたのは2016年夏ごろのようで、未だ世界経済は「グレート・リッセション(大不況/日本は被害があまり大きくなかったためリーマン・ショックと呼んでいますが)」の影響から完全には立ち直っていない時代です。それからすでに10年が経過しましたが、少なくとも日本では資本主義が「死んだ」ようには見えません。まあ、トランプの戦争のため、これから「死ぬ」のかもしれませんがw。

 

しかし非常に興味深い議論で、面白かったです。訳文もこなれていて読みやすい。

 

お薦めですね。