(承前)前編で全体の議論をザックリと(≑粗雑にw)紹介したので、私自身の個人的な感想や興味深いと思った事柄を記しておきましょう。
・『さらば、近代民主主義』の書評でも書いたように、ネグリ&ハートは「近代」と「ポスト近代」との間には大きな「断絶」があると考える。彼らによれば、現代を「ハイパー近代(=後期近代・再帰的近代)」とみなす見方は、「伝統的な社会体を守るか再生したい」と考える「ノスタルジー」に由来する(下・15頁)。宇野重規さんのデモクラシー擁護論には、確かにそういった傾向があるように思います。
・著者たちは「マルチチュード」という語を二つの意味で用いている。存在論的な(≑ 概念としての)マルチチュードと歴史的な(≑ 事実としての)それである。後者は「いまだ存在せざる」ものであって、「このマルチチュードはまだ実際に姿を現してはいない」(下・65頁)。しかし、『さらば、近代民主主義』でネグリは、フランスの五月革命や年金改革に対する抵抗運動(95~96年)を「マルチチュードの特異的な要求」(同書・100頁)と書いていた。本書でも、シアトルにおけるWTO閣僚会議への反対デモ(1999年)やメキシコ先住民による「サパティスタ民族解放軍」などをマルチチュードによる抵抗として記述している。してみると、彼らの言う「いまだ存在せざるマルチチュード」とは、突発的に出現して「帝国」に反逆するマルチチュード(それは多くの「特異性」が結集した一つの「結節点」にすぎない)ではなく、全地球的規模で蜂起するそれを意味しているのだろうか。
・『デモクラシーの擁護』で山崎望さんは、著者たちの「絶対的民主主義」について、マルチチュードは「サバルタン(=自らの声を持たない下層階級の人たち)化」された人々の声を聞き取ることができるのか、と疑問を呈していた。なるほど、著者たちによれば、マルチチュードは「限界も制限もない分散型のネットワーク」で、その「境界は不確定でオープン」である。また、それは「政治的組織化のプロジェクト」であって、「政治実践を通してしか達成できない」。それ故、「そこから必然的に排除される者は誰一人としていないが、全ての人間が包含されることが保証されているわけでもない」(下・71頁)。ここで、日本人の女性で最終学歴は高卒、ダブルワークで年収240万円、性格の温和なシングルマザーを考えてみよう。彼女は「共/common」(=共同・共通・共有のもの)を生産する労働を通じて、マルチチュードのネットワークにはつながっている。しかし、彼女のような人が自ら声を上げることはあまりありそうにないし、たとえ声を上げたとしても、それがマルチチュードの「反逆」に結晶するとはとても思えない。そうした意味で、私は山崎さんの方が正しいように思う。(註・ここまで全く言及しませんでしたが、「共」は言語、知識、社会的関係のように、非物質的・生政治的労働の前提となると同時に、その労働が生産する「共同・共通・共有のもの」です。)
・ネグリ&ハートによれば、「マルチチュードは社会集団ではない」。それは「単一性に還元されえず、一者による統治に従うこともない」。それは「主権者にはなりえない」。「同じ理由で」、絶対的民主主義は「伝統的な意味での統治形態」ではない。「人々の多様性は主権という単一の形象に還元されない」。「多数多様性は社会に対する決定を下すことはできない」(下・222頁)。つまり、マルチチュードは、従来の意味での「主権」として、世界を「統治」するわけではないのである。これは言い換えれば、マルチチュードは「抵抗・反逆」という形でしか存在しえない、ということだ。主権を行使するのはあくまでも「帝国」であって、マルチチュードは時おり結集し、反乱を起こし、「帝国」の政治を妨害したり、撤回させたりする、ということなのだろう。
・あるいは、絶対的民主主義とは、「上から」統治するのではなく、「下から作り上げる」(下・87頁)民主主義を意味している、と言ってもよい。これは、マルチチュードが生政治的な生産によって、社会を変革していくことも含んでいる。著者たちは具体例として、フェミニズム運動や反人種差別運動、LGBTの権利推進運動などを挙げている。
・本書は2004年に出版され、冒頭の一文で「今日、地球規模で民主主義を実現する可能性が、まさしく初めて現れ出つつある」と述べた。それから22年を経た現在から見ると、本書で提出された「予言」は、当たっているとも当たっていないとも言えそうである。近年の出来事で言えば、フランス領ニュー・カレドニアにおける自治権の拡大、バングラデシュの政権交代、インドにおける「ゴキブリ人民党」の運動などは、マルチチュードの反乱が成功した例だろう。他方で、ロシアではマルチチュードはほぼ完全に抑圧されているように見えるし、アメリカでもトランプ政権の「MAGA」運動などは、マルチチュードの全地球的なネットワークを形成することがいかに困難であるかを証示するものだと言えるだろう。
・読みながら、「意外と脱構築的だな」と思いましたが、長くなったので、その件は別の機会に譲ります。