ゴキゴキ殲滅作戦!

ゴキゴキ殲滅作戦!

念のために言っておくが、私はゴキブリではない。
さらに念のために言っておきますが、このブログはコックローチやゴキブリホイホイとは何の関係もありません。
本と映画と渋谷とフランスについての日記です。

綿矢りささんの『激しく煌(きら)めく短い命』(文藝春秋)を読了しました。

 

「文學界」連載時(2020年8月~24年7月)のタイトルは「激煌短命」で、単行本は昨年8月に刊行。私はここ10年くらい小説の単行本は買わないようにしているのですが(嵩張るし、積ん読しているうちに文庫になったりするから)、世田谷区立図書館で予約したら20冊所蔵で予約順位が168位、目黒区立図書館では10冊所蔵で77位。やむなくアマゾンで購入して読みました。

 

第一部「13歳、出会い」、第二部「32歳、再会」の二部構成。一貫して主人公の視点から一人称で語られますが、おそらく物語の「現在」は第二部にあって、第一部は大人になった主人公の「想像を交えた回想」です(第一部第一章の冒頭に「あのころ、私たちは良い香りなんかしなかった・・・」とある)。

 

主人公の悠木久乃(ゆうき・ひさの)は中学校入学式の当日、ほどけた髪をゴムで束ねてくれた朱村綸(あけむら・りん)と親しくなる。二人で会って遊ぶ日々を重ねるうち、久乃が綸に抱く友情はしだいに恋へと変容する。綸の気持ちも同様で、二人は互いに手を握り、髪を撫で合い、ついには抱き合ってキスをするまでになる。

 

しかし林間学校でのある出来事から、二人を「レズ」とする噂が広まり、久乃はクラスでいじめの標的にされてしまう。一旦距離を取ろうとする久乃とそれでも自分の気持ちを押し通そうとする懍。二年生の秋、些細な誤解から喧嘩別れをした後も、互いに気持ちの整理がつかない二人は、卒業式の後でとうとう取っ組み合いの喧嘩となり、顔を引っ掻かれた久乃は鼻筋の脇、右目の横に少し深めの傷を負ってしまう。

 

第二部。32歳になった久乃は大手広告代理店の営業部で働いている。枕営業までして、営業成績はトップである。右目の横には眼鏡跡のような小さな傷跡。彼女が中学の同級生で綸の幼なじみでもある「橋本くん」のインスタグラムを偶然見つけてフォローしていると、彼の投稿の中に「りん」という名前を発見するのだった・・・

 

旧正月を迎える深夜のカウントダウン等、中学時代の二人のデートの場面(in 京都)が美しい。

 

性交渉の描写は前作『生のみ生のままで』と同様、相当に「過激」だが「いやらしさ」を感じない。

 

また、前作では主人公は告白される側でしたが、本作では告白する側になっています。

 

「綸が私の頭を慰めるように撫でた。『私、綸がいないとだめなんだよ。大人になって再会して、また好きになった、あなたを』。綸の手が止まり、私の頭から離れていった。『そんな訳無いやろ。だって私らもう大人になって、分別もつく年になったし』。『分別がついた今でも、今の綸が好きなの』。『聞きたなかった』。綸がベッドから離れる気配がした。『驚きすぎて、もう。友達と思ってたのに、裏切られた気分。帰るわ私』。バタンとドアの閉まる音が部屋に響き、私は呆然として動けず、しばらく扉を眺めた。」(537頁)

 

それだけに恋する女の情熱、喜び、不安と逡巡、そして絶望が丁寧に描かれて、明確な形を取って浮上します。

 

希望を感じさせるラストシーンもいい。

 

全体としていい作品に仕上がっていると思う。

 

ただ、恋愛・性愛の他に「差別(性的マイノリティー、女性、外国人等への)」や「命」などのテーマも盛り込んでいて、恋愛小説としての純度・密度は『生のみ生のままで』の方が勝るのではないでしょうか。

 

さらに、「母方の祖母」や「父親が家に帰らない理由」など、第一部と第二部とで記述に矛盾する点があり、これが単なる過誤なのかそれとも意図的なもの(第一部は「想像を交えた回想」なので)なのかは、文庫になった際に改稿されるか否かなど、今後を待たなければ断定はできません。

 

私個人としては前作の方が好きですが、人によっては本作の方を高く評価する方もいるかもしれません。

 

綿矢りささんの『生(き)のみ生のままで』(集英社文庫)を読了しました。2019年に刊行され、「島清(しませ)恋愛文学賞」(←初めて知った)を受賞した作品です。

 

主人公の逢衣(あい)は25歳の平凡な女性会社員。夏休みに恋人の颯(そう)と出かけた秋田のリゾートホテルで、彼の幼なじみ琢磨(たくま/そのホテルは颯と琢磨の父親が勤務する会社の所有)の恋人で同年齢の彩夏(さいか/売り出し中の女優)と出会い、親しくなる。

 

東京に帰ってからも逢衣と彩夏の付き合いは続くが、しばらくすると琢磨が彩夏から別れを告げられたことを知る。「好きな人ができた」と言うのである。真相を聞きたいと、彩夏の招待を受けて彼女のマンションを訪問する逢衣。ところが、彼女は寝室で彩夏に強引に唇を奪われてしまう。

 

「腕を伸ばし私の後ろ首をつかんだ彩夏が急に私に覆いかぶさってきて、短く息を吸いこんだあと唇を私の唇に強く押しつけた。変な冗談、とりあえず笑って避けようと顔を背けるが、間近で彩夏の息を呑む音が聞こえてまた唇を奪われる。・・・『どこにも行かないで、一人じゃとてもやっていけない。こんなに逢衣が好きなのに・・・ねえもう好きで好きで抑えられないよ。逢衣を見るだけで身体の細胞が全部入れ替わってしまうほど好き。』」(上巻91~92頁)・・・

 

これほど濃密な恋愛小説を読んだのは初めてです。「他の誰でもない、あなたの心が欲しい、あなたの身体が欲しい」といった、性愛の情念が全編にみなぎっている。

 

私は著者の描写力をかねてから高く評価していましたが、上の引用部分を含むいくつかの場面は、壮絶なまでの臨場感をもって迫ります。

 

観音崎でのラストシーンは息を呑むほどに美しい。

 

単なるレズビアン小説ではありません。ゲイ、レズ、ヘテロ等の区別を超えた、性愛の「本質」(←本質的ならざる「本質」)を追い求めた傑作だと思います(註・いかなる「本質」をもすり抜ける、あるいはいかなる「本質」をも攪乱することが、性愛の「本質」なのです)。

 

絶対にお薦めですね。

 

 

3時間半後の追記

なんとなく余韻に浸りたくて、適当に読み返していたら気づきました、上で「あなたの身体が欲しいといった、性愛の情念」を感じた理由。性交渉の描写が精緻を極めるばかりか、それ以外の日常生活の場面でも、逢衣の目に映る彩夏の身体の描写が異様なまでに克明なのです。「ねっとり」とした視線を送っているんだろうなぁw、と。これは同性愛小説だから不自然に感じないのであって、こんな風に異性愛を描いたら、相当に「いやらしく(=ほとんどポルノに)」なってしまいそうに思います。

 

アントニオ・ネグリの『さらば、“近代民主主義”』(杉村訳、作品社、2008年)を読了しました。10年ほど前、マイケル・ハートとの共著『帝国』(←世界的ベストセラーです)を読んで興味を持ち、その後何冊か購入して「積ん読」状態だった本の一冊です。

 

2004年~2005年、パリの「国際哲学コレージュ」で行われた講義の記録。「民主主義が終わる」という内容かと思って読み始めたら、全く当てが外れて、「ポスト近代の民主主義=絶対的民主主義」についての本でした。以下、感想を列挙します。

 

・極左(←著者はイタリアで収監されたことがある)特有の悪文で、記述は一貫して抽象的。具体的な説明はほとんどない。翻訳もかなり生硬。意味不明の文が多く、結局、分かる(ような気がする)箇所だけをつなげて、「多分、こういうことを言っているのだろう」と想像するしかない。

 

・現代を「ハイパー近代(=後期近代・再帰的近代)」と考える見方がある。ドイツの思想家、ウルリッヒ・ベックやアンソニー・ギデンズが提唱した見解で、日本でも宇野重規さんや森政稔さんが採用している視座である。この見解によれば、「近代」が徹底化され、その(悪)影響を直接被っているのが「現代」だ。ネグリはそのような見方を否定し、「近代」と「ポスト近代」との間には大きな「断絶」があると考える。彼によれば「ポスト近代」は、「非物質的労働(=頭脳労働)」「生権力」「グローバリゼーション」によって特徴づけられる時代である。他方で、柄谷・浅田は「ポスト・モダン」(←直接的に政治や社会を指しているのではなく、「ポスト・モダンの思想」のことだが)を「モダン」の「後」ではなく、「モダンをずらした」ものと捉えていたように思う。この問題に関しては、少し考えてみたい。


・ネグリは「マルチチュード」について具体例を挙げている。フランスでは、五月革命(1968年)や年金改革に反対する運動(1995~96年)の参加者たちである。『帝国』を読んだときは、「マルチチュード」とは「ネットワークで結ばれた全世界の一般市民」という理解だったので、「そんなものが本当に連帯できるのか」と思ったが、上記のような突発的・自然発生的な運動の主体のことならば、納得できる。

 

・著者は「生権力」が機能するときには必ず「敵対性・抵抗」が生ずると主張するが、具体例が挙げられておらず、全く理解できない。上のような年金改革に対する反対運動ならば、それを「抵抗」と呼ぶことができるだろう。しかし、健康診断や医療行為、あるいは衛生状態の改善(←すべて生権力の行使です)に対する「抵抗」とは、一体何のことだろう。もちろん、生権力は単独の個人が持つ「特異性」にまでは及ばないが、それを「抵抗」とは言わないだろう。

 

『帝国』は分かりやすかったように記憶していますが、次に本書を選択したのは「失敗」でした。『マルチチュード』(←これもハートとの共著)の方を先に読むべきでした。

 

ヴォルフガング・シュトレークの『資本主義はどう終わるのか』(村澤・信友訳、河出書房新社、2017年)を読了(したことにw)しました。

 

著者は(本書「あとがき」には経歴が紹介されておらず、ウィキペディア日本語ヴァージョンにもないのですが)、1946年生まれのドイツの社会学者で、元ケルン大学教授。本邦では本書の前に『時間かせぎの資本主義』(鈴木訳、みすず書房、2016年)が出ていて、この本はその「続編」という位置づけのようです。

 

60頁もある「序文/資本主義――その死と来世」と11の章(それぞれ個別の論文)からなる論文集で、私は最初の三つの論文と序文(訳者の勧めで最後に読みました)だけ読んで、「読了」です(残りはヨーロッパ社会・経済についての「具体的な」分析のようなので)。

 

シュトレークは資本主義を単なる経済システムではなく、「無際限に進行する民間の資本蓄積」に基づく「社会秩序であるとともに生活様式」と定義します。

 

その上で彼は、現在の最先端資本主義諸国における三つの「長期的傾向」に着目する。経済成長率の低下、政府・民間における膨大な債務、そして経済格差の拡大である。反復する経済危機や民主主義の劣化など、それらに付随する諸問題にも言及した後、エリートたちもそうした問題を解決する手段を知らないことを明言する。このことから著者は、近い将来における資本主義の「死」を予言します。ここで言う「死」とは、ひとつの「出来事」ではなく「過程」であって、資本主義は「長期にわたって苦しみながら朽ちていく」。そしてその後に到来するのは、「別の秩序ではなく無秩序と混乱」だと言うのです。

 

そうした事態が生じたのは何故なのか。かつてカール・ポランニー(1886-1964)は、三つの「偽りの商品」を列挙した。労働・土地(自然)・貨幣である。これら三者は厳しい制限の下でのみ商品として扱うことが許されるものであって、もしも全面的に商品化されてしまったら、それ自体が「破壊されるか、あるいは利用不可能になってしまう」。ところがグローバリゼーションの進展によって、「それらの領域を完全な市場化から守るための諸制度は次々と破壊されている」。

 

換言すれば、資本主義の市場経済は、各国政府による規制、労働組合や社会主義思想など、市場経済を抑制するものによってこそその安定性を維持してきた。ところがグローバル化した市場は、そうしうたものを消去し、あるいは無効・骨抜きにしてしまったのである。著者は特に「労働」を例にして解説しています。労働規制の撤廃、発展途上国の労働者の劣悪な労働環境、不当な低賃金で働く移民たち、等々です。

 

前回紹介したフレイザーとは異なって、シュトレークは「社会主義」に希望を託してはいません。そのため、内容は徹底的に悲観的になっています。

 

・・・原著が出版されたのは2016年夏ごろのようで、未だ世界経済は「グレート・リッセション(大不況/日本は被害があまり大きくなかったためリーマン・ショックと呼んでいますが)」の影響から完全には立ち直っていない時代です。それからすでに10年が経過しましたが、少なくとも日本では資本主義が「死んだ」ようには見えません。まあ、トランプの戦争のため、これから「死ぬ」のかもしれませんがw。

 

しかし非常に興味深い議論で、面白かったです。訳文もこなれていて読みやすい。

 

お薦めですね。

 

ナンシー・フレイザーの『資本主義は私たちをなぜ幸せにしないのか』(江口泰子訳、ちくま新書、2023年)を読了しました。著者は1947年生まれのアメリカの政治学者で、巻末の解説は白井聡さんです。

 

著者はマルクス、ローザ・ルクセンブルクの後を受けて、資本主義を単なる経済システムとしてではなく、「制度化された社会秩序」と捉えます。そこにおいて「経済領域」は、それを支え、それを可能にする背景としての「非経済領域」に依存している。しかもこの依存関係は「ただ乗り」で、資本の蓄積・増殖を至上命令とする「経済領域」は、自らの可能性の条件である「非経済領域」を「貪り食って」いるのです。

 

著者はこの「非経済領域」を四つに分類します。まず植民地、独立後は発展途上国からの「収奪」。これによって先進諸国は、それらの国(およびその国民/ほぼ全てが有色人種)から莫大な富を移転している。

 

第二に、「社会的再生産」。出産、育児、教育および老親の介護。労働者に食事を与え、疲れを癒やし、労働力を回復させるための家事労働。これらはそのほとんどが、女性による無償労働で成り立っています。

 

第三に「自然」。それは「経済領域」に原材料やエネルギーを大量に供給し、同時に廃棄物の処分場となる。あるいは資本が熱低雨林を伐採し、単一作物を栽培する農場に変える。森林の二酸化炭素吸収力は弱まり、それが地球温暖化の一因となる。ここでも主要な代価を支払うのは、発展途上国とその国民です。

 

第四に「公的政治」。資本主義の「経済領域」は、法規制、治安の維持、インフラの整備など、多くの面で公的権力に依存している。しかしこの公的権力は、多国籍企業とグローバルな資金の流れによって「骨抜き」にされてしまいます。

 

著者によれば、資本主義の「経済領域」はこうして己が「貪り食った」もの(=自己自身の可能性の条件)を、補充したり回復させさせたりは決してしない。そのような資本主義は必然的に不安定になり、危機を孕んだものとなる。そしてその危機が頂点に達し、もはや誰の目にも明らかになったとき、資本主義はその体制を転換します。かくして、資本主義の「歴史」ができる。重商主義、植民地資本主義、国家管理型資本主義(フォーディズムに代表される)、そして現代の金融資本主義、と。

 

さらに著者が強調するのは、上の四つの「ただ乗り」は相互に関連し合っている、ということです。例えば、発展途上国の労働者が非常に安い賃金で自然を改変したり、先進国で不法移民の女性が法外に低い給与でベビー・シッターをする、といったケースです。このように四つの「ただ乗り」は互いに複雑に絡み合っているので、個別に対処しても対症療法にしかならず、根治することはできないません。

 

そこで、著者が求めるのは全面的な変革、つまり資本主義そのものの解体です。こうして著者は、資本が社会を「貪り食う」のではなく、社会が資本を統制するような「社会主義」の社会秩序を提案します。それが非常に困難な道であることは著者も理解しており、またそうした社会がどのような社会なのか、著者自身も具体的な構想は持っていないようです。

 

しかし彼女は、バーニー・サンダースやアレクサンドリア・オカシオ=コルテス、そして「アメリカ民主社会主義者(DSA/党員は激増しているらしい)」に希望を託します。

 

議論の内容は具体性に富んで分かりやすく、訳文もこなれていて読みやすい。

 

良書だと思います。お薦めですね。

エミリー・ブロンテの『嵐が丘』(鴻巣友季子訳)を読了しました。

 

サマーセット・モームが『世界の十大小説』の一つに選んだ、世界文学史上燦然と輝く名作で、私は大学生のとき旧訳を購入したのですが、その後読む機会がなく、「ブック・オフ」で落手した新訳(2003年)で読みました。

 

古典的名作ですし、「あらすじ」はネット上に星の数ほどあるので、ここでは省きます。

 

数多の研究者が発表した優れた研究が、これも「星の数」ほどあることも承知していますが、ここで何も書かないというわけにも行かないので、個人的な(あくまでも「個人的な」)感想をいくつか書いておきましょう。

 

・「性愛」の要素が希薄、と言うか「ほとんど無い」。主人公のヒースクリフとヒロインのキャサリンは、互いにセックスしたいと思っているように見えない。このことは作者のエミリーが結婚することなく、30歳で(おそらく性経験なく)死亡したことと関係しているのかもしれない。

・ストーリー展開は、不自然な箇所も多いが、すごくスリリングで面白い。

・情念の激しさが凄まじい。ヒースクリフとキャサリンは愛し合っていると同時に、憎み合っている。

・語りの構造は現代文学に通じるものがある。物語はすべてを知る「神」の視点で語られるのではない。冒頭第四章の半ばまでと終盤の数ヶ所は「鶫(ツグミ)の辻(←元リントン家の邸宅)」の賃借人ロックウッドの視点で語られ、それを除く大部分は「嵐が丘」および「鶫の辻」の家政婦ネリーがロックウッドに語った「証言」という形式である。ネリーの証言は出来事についても他者の発言についても詳細を究め、すべてが真実であるとは到底思えない。

・キャサリンの死の18年後、ヒースクリフが彼女の墓を掘り返す有名な場面は、ヒースクリフ自身がそのように言った(とネリーが言っている)だけで、本当であるか否かはわからない。

 

モームの『世界の十大小説』、私が読破したのはこれでようやく六冊目(読んだ順に書けば『赤と黒』『ゴリオ爺さん』『ボヴァリー夫人』『戦争と平和』『カラマーゾフの兄弟』『嵐が丘』)。残りの四冊も今年か、遅くても来年中には読みたいですね。

 

 

半日後の追記

上で「性愛の要素が希薄」と書きましたが、それもネリーの語り方の故と考えることもできそうです。つまり、ヒースクリフもキャサリンも「したくてしたくて堪らない」のですが、おそらく性経験のないネリーにはそれがわからない、あるいはわかっているが「はしたない」から言わない、という解釈です。

 

本年も最後の日となりましたが、今年は「仕事納め」にならないようです。

 

大学の授業は19日(金)で終了。例年通り、今の時点でできる仕事(1月の授業用資料および後期試験問題とその正解の作成、来年度の授業計画を大学のサイトに入力、通信講座のレポートを添削し大学に返送、確定申告のための決算書と医療費明細書の作成等)をすべて終えたのが、28日(日)の午後2時ごろ。

 

ところが今年は論文を書いた関係で、読み残した新聞が山のようにあったのです。11月10日に論文の「修正ヴァージョン」を提出後、逆の順序で(in reverse order/今日→昨日→一昨日...)読んできたのですが、8月7日(論文を書き出した日)の新聞が終わったのが12月21日(日)。それからはまた新聞を読まずに上の(↑)仕事を終わらせ、29日からは当日の新聞は読まずにまた逆順序で古新聞を読んでいます。

 

今残っている新聞は、19日夕刊、20日、21日と、29日から今日31日まで。とても今年中には終わりません。

 

ということで、皆さま、よいお年をお迎えください。

 

昨日午後電子メールがあり、某学会誌に投稿した新論文の採用が決定しました。3年前も6年前も採用されたので、今回も大丈夫だとは思っていましたが、やはり少しホッとしています。

 

「第10稿/決定稿(本文31,801字)」が完成したのが9月22日(月)の午後。アメリカの政治哲学者ウィリアム・コノリーのいう「脱構築」を本家ジャック・デリダの脱構築と比較した上で、コノリーのそれを「広義の脱構築」として受け入れて、彼の戦略と具体的な手法を分析したものです。すぐに、編集委員会にワード原稿とPDFをメールで送付しました。

 

その後、資料を読んだり、執筆中全く読めなかった新聞を逆順序で(今日の新聞→昨日の新聞→一昨日のそれ・・・のように)読んだりしていると、10月31日夕刻に二つの「査読意見書」が届きました。一方は非常に好意的で「学術的価値が高い」とまで書いてくれたのですが、他方は「先行研究との異同についての節を加えて下さい」等、いろいろと注文が多い。

 

もともと本邦ではコノリーについての「先行研究」はあまりなく、特に脱構築との関係で書かれたものは京大名誉教授の「大家」が書いたわずか6頁の解説(正直な話、多少論点がズレていると思う)ぐらいしか見当たりませんが、そうした事情を書いてみると、文字数が34,000を超えてしまいました。制限文字数が「原則32,000字(少しくらいなら超過してもいいらしい)」なので、重要度の低い「註」を削除したり、「引用」を短縮したりして(一文を削除し、「・・・」で代替したりする)、31,986字まで短縮し、11月10日に再提出。そして昨日、上で書いたように採用通知を受け取ったという次第です。

 

読み残した新聞はまだ9月12日までしか遡っていません。まだ当面は「新聞漬け」の生活が続きそうです。

新論文の「第三稿」が完成しました。29,000字超。

 

ここで、今までの経緯を振り返っておきましょう。

 

2月、ウィリアム・コノリーの『アイデンティティ\差異』(邦訳)を、原書を参照しながら読み返す。5回目です(最初の2回は途中で放棄したがw)。

3月、『アイデンティティ\差異』のノート(引用集)を作成する。A4で43頁。

4月~7月、参考資料を読む。

8月9日、「第零(ゼロ)稿」の作成を始める。午前中~午後2時はノートを読み、午後3時~5時まで執筆しました。

8月21日、第零稿が完成。18,000字。

8月24日、第一稿が完成。21,000字。

8月27日、第二稿が完成、24,000字。

 

論文の登場人物は今のところ

ウィリアム・コノリー(主役)

ジャック・デリダ(sidekick/助手)

井上達夫(2シーンだけ)

のみ。

 

名前だけ登場するのが

フーコー、ニーチェ、シャンタル・ムフ、リチャード・ローティ、齋藤純一、大川正彦。

 

大川さんには今後、台詞付きの役を演じてもらう予定です。

 

これからしばらくは資料を読みながら、少しずつ手を加えて行こうと考えています。

 

本日、午後1時過ぎ、新論文の「第零(ゼロ)稿」を完成しました。タイトルは秘密ですが(発表後、そのタイトルでネット検索されると、私の素性がバレてしまうのでw)、アメリカの政治哲学者ウィリアム・コノリーについて、ジャック・デリダの「脱構築」という観点から分析した論文です。

 

論文を書くとき、私はいつもまず、ただ「最初の一文」から「最後の一文」まであるだけの、メチャクチャな草稿を作ります。それが私が「第零(ゼロ)稿」と呼んでいるものです。

 

これは、私の頭の中にある粗雑なプランを書き出しただけの殴り書きだから、比較的簡単にできる。また、ほとんど何も考えていないから、書いていてもあまり面白くない。

 

問題はこれからです。論旨が整って内容も精緻な「第一稿」を作るに当たって、初めて「考える」わけだから。いつも大変苦労しますが、実は、これが面白い。

 

これから遅めの昼食を取って、それから始めましょう!

 

 

PS

「第零稿」は18,000字強。三年ぶりの論文なので、30,000字程度(=10,000字×三年)まで膨らませたいと思っています。