ゴキゴキ殲滅作戦!

ゴキゴキ殲滅作戦!

念のために言っておくが、私はゴキブリではない。
さらに念のために言っておきますが、このブログはコックローチやゴキブリホイホイとは何の関係もありません。
本と映画と渋谷とフランスについての日記です。

(承前)前編で全体の議論をザックリと(≑粗雑にw)紹介したので、私自身の個人的な感想や興味深いと思った事柄を記しておきましょう。

 

・『さらば、近代民主主義』の書評でも書いたように、ネグリ&ハートは「近代」と「ポスト近代」との間には大きな「断絶」があると考える。彼らによれば、現代を「ハイパー近代(=後期近代・再帰的近代)」とみなす見方は、「伝統的な社会体を守るか再生したい」と考える「ノスタルジー」に由来する(下・15頁)。宇野重規さんのデモクラシー擁護論には、確かにそういった傾向があるように思います。

 

・著者たちは「マルチチュード」という語を二つの意味で用いている。存在論的な(≑ 概念としての)マルチチュードと歴史的な(≑ 事実としての)それである。後者は「いまだ存在せざる」ものであって、「このマルチチュードはまだ実際に姿を現してはいない」(下・65頁)。しかし、『さらば、近代民主主義』でネグリは、フランスの五月革命や年金改革に対する抵抗運動(95~96年)を「マルチチュードの特異的な要求」(同書・100頁)と書いていた。本書でも、シアトルにおけるWTO閣僚会議への反対デモ(1999年)やメキシコ先住民による「サパティスタ民族解放軍」などをマルチチュードによる抵抗として記述している。してみると、彼らの言う「いまだ存在せざるマルチチュード」とは、突発的に出現して「帝国」に反逆するマルチチュード(それは多くの「特異性」が結集した一つの「結節点」にすぎない)ではなく、全地球的規模で蜂起するそれを意味しているのだろうか。

 

・『デモクラシーの擁護』で山崎望さんは、著者たちの「絶対的民主主義」について、マルチチュードは「サバルタン(=自らの声を持たない下層階級の人たち)化」された人々の声を聞き取ることができるのか、と疑問を呈していた。なるほど、著者たちによれば、マルチチュードは「限界も制限もない分散型のネットワーク」で、その「境界は不確定でオープン」である。また、それは「政治的組織化のプロジェクト」であって、「政治実践を通してしか達成できない」。それ故、「そこから必然的に排除される者は誰一人としていないが、全ての人間が包含されることが保証されているわけでもない」(下・71頁)。ここで、日本人の女性で最終学歴は高卒、ダブルワークで年収240万円、性格の温和なシングルマザーを考えてみよう。彼女は「共/common」(=共同・共通・共有のもの)を生産する労働を通じて、マルチチュードのネットワークにはつながっている。しかし、彼女のような人が自ら声を上げることはあまりありそうにないし、たとえ声を上げたとしても、それがマルチチュードの「反逆」に結晶するとはとても思えない。そうした意味で、私は山崎さんの方が正しいように思う。(註・ここまで全く言及しませんでしたが、「共」は言語、知識、社会的関係のように、非物質的・生政治的労働の前提となると同時に、その労働が生産する「共同・共通・共有のもの」です。)

 

・ネグリ&ハートによれば、「マルチチュードは社会集団ではない」。それは「単一性に還元されえず、一者による統治に従うこともない」。それは「主権者にはなりえない」。「同じ理由で」、絶対的民主主義は「伝統的な意味での統治形態」ではない。「人々の多様性は主権という単一の形象に還元されない」。「多数多様性は社会に対する決定を下すことはできない」(下・222頁)。つまり、マルチチュードは、従来の意味での「主権」として、世界を「統治」するわけではないのである。これは言い換えれば、マルチチュードは「抵抗・反逆」という形でしか存在しえない、ということだ。主権を行使するのはあくまでも「帝国」であって、マルチチュードは時おり結集し、反乱を起こし、「帝国」の政治を妨害したり、撤回させたりする、ということなのだろう。

 

・あるいは、絶対的民主主義とは、「上から」統治するのではなく、「下から作り上げる」(下・87頁)民主主義を意味している、と言ってもよい。これは、マルチチュードが生政治的な生産によって、社会を変革していくことも含んでいる。著者たちは具体例として、フェミニズム運動や反人種差別運動、LGBTの権利推進運動などを挙げている。

 

・本書は2004年に出版され、冒頭の一文で「今日、地球規模で民主主義を実現する可能性が、まさしく初めて現れ出つつある」と述べた。それから22年を経た現在から見ると、本書で提出された「予言」は、当たっているとも当たっていないとも言えそうである。近年の出来事で言えば、フランス領ニュー・カレドニアにおける自治権の拡大、バングラデシュの政権交代、インドにおける「ゴキブリ人民党」の運動などは、マルチチュードの反乱が成功した例だろう。他方で、ロシアではマルチチュードはほぼ完全に抑圧されているように見えるし、アメリカでもトランプ政権の「MAGA」運動などは、マルチチュードの全地球的なネットワークを形成することがいかに困難であるかを証示するものだと言えるだろう。

 

・読みながら、「意外と脱構築的だな」と思いましたが、長くなったので、その件は別の機会に譲ります。

 

アントニオ・ネグリ&マイケル・ハートの『マルチチュード』(NHKブックス、原著2004年)を読了しました。2000年に出版され、世界的ベスト・セラーとなった『帝国』の続編です。

 

「上・下」二巻で650頁に及ぶ大著で、内容は多岐にわたり、しかも議論が前後しつつ進行するので、全体を統一的な視点から直線的に要約するのは困難です。が、私の「想像w」も交えて大ざっぱに解説すれば・・・

 

ネグリ&ハートによれば、「帝国」とはアメリカを始めとする支配的諸国家、国連やIMFのような国際機関、巨大多国籍企業、世界的宗教団体、国際NPO等、地球の全体を支配している多重的権力の複合体である。他方で、「帝国」に統治されつつもそれに抵抗する、全世界を覆う一般市民のネットワークが「(来るべき?)マルチチュード」である。

 

マルチチュードの「肉」においては、数多くの特異性(≑ 個人)が、互いの差異を保ったままリゾーム状のネットワークを作って結節点を形成し、その結節点たちがまたリゾーム状のネットワークで結ばれて世界の全体を覆っている(註・一つの特異性が一つだけの結節点に内包されるということではなく、それは複数の結節点と関係する、ということでしょう)。

 

マルチチュードの「肉」が「身体化」される仕方は二つある。すなわち、「帝国」の臣民となって搾取されるに甘んじるか、あるいは「帝国」に反逆して、革命へと向かうか。とは言え、この二つは単純な二択ではなく、実態は「搾取」されつつ「反逆」するのだろう。そして、こうした「反逆」の可能性に賭けたのが、本書です。

 

本書は三部から成り、第一部は「戦争」。ネグリ&ハートによれば、「帝国」による統治の目的は、現存の世界における政治的・経済的・社会的な分断やヒエラルキーを、維持・保存することである。その目的を達成するための戦略が「戦争」である。ここで「戦争」とは、重火器による敵の殲滅ではなく(それも一部含まれるが)、最重要なのはテロリズムや反乱を未然に防ぐことである。そのための具体的な戦術が、一般市民(≑マルチチュード)の社会生活、ライフ・スタイル、行動パターンを支配することである。このように、「(人)生」そのものの徹底的な管理を可能にする権力を、著者たちは「生権力」と呼んでいる。

 

第二部「マルチチュード」。ネグリ&ハートは、現代における主要な労働形態を「非物質的労働」だと考える。それは(以前私自身が、『さらば、近代民主主義』の書評で書いたような「頭脳労働」にとどまらず)、協働やコミュニケーションを介して、アイディア、知識や情動など非物質的な財を生産する労働一般(≑ 第三次産業)である。それは個人や集団の社会的な生を可能にし、生活様式や生き方に影響を与えるという意味で、「生政治的」と呼ぶこともできる労働である。マルチチュードによる抵抗の契機が生じるのはここにおいてである。と言うのも、マルチチュードは、「帝国」の「生権力」によって生を管理される一方で、「生政治的労働」を介して自ら生を生産してもいるからである。

 

第三部「民主主義」。ネグリ&ハートはまず、「帝国」によるグローバルな支配に対して具体的に行われた異議申し立てや、改革の提言を紹介する。そして、そのような改革は、「帝国」による抑圧のため実現不可能であるばかりでなく、それによってはグローバルな民主主義を維持することはできないと主張する。ここで著者たちは18世紀の政治思想家たちに言及し、彼らが国民国家レベルの民主主義を構想するに当たって、古代ギリシャの都市国家民主主義は採用できないと考えたことを指摘する。そのことは現代のわれわれにとっても同様で、グローバルな規模での「絶対的民主主義」は、国民国家の民主主義を拡張することによって実現することは不可能なのだ。こうして著者たちは、マルチチュードの生政治とそれに基づいた反抗の中に、「絶対的民主主義」の発露を見るのである。

                       (この項続く)

 

ミッシェル・トゥルニエの『大雷鳥(Le Coq de bruyère)』(邦訳題名『赤い小人』)を読んでいます。1978年(もう50年近く昔ですね)刊行の短編集。5年前(2021年)に1/3ほど読んで紹介しましたが、今回はまた1/3ほど読みました。

 

まず、「トリスタン・ヴォックス」。まだテレビのない時代。小柄でハゲで太鼓腹、60歳に近いフェリックス・ロビネは、売れない舞台俳優を引退し、静かに老後を送ろうと、ラジオのアナウンサーに転身する。トリスタン・ヴォックスと名乗ると、その個性的で魅力的な声が聴衆を魅了して・・・。一人歩きしたイメージが、やがて本人や周囲の人々を巻き込んで大騒動を引き起こす。面白かったです。

 

「ヴェロニックの死装束」。野心的で実験的な写真家のヴェロニック。彼女は、ルネッサンス期に解剖学と生体解剖を創始した医師ヴェザルからヒントを得て、「直接写真術」なるものを考案する。彼女の裸体モデルとなったエクトールは・・・。フランス版『地獄変』のようなお話です。

 

「若い女の子と死」。幼少時から「存在の吐き気を催す(←サルトル的な!)味気なさ」「空虚」「退屈」に苛まされているメラニーは、成長すると「死」に魅了されるようになる。首を吊るための縄と椅子を揃え、友人の婚約者からピストルを盗み、毒キノコを収集し、元家具職人にギロチンを作ってもらい・・・。最終的に彼女の願望は成就するわけですが、これを「ハッピー・エンド」と言うべきか?

 

私は毎年、春休みと夏休みにフランス語の小説を読む習慣があったのですが、去年の春以降は論文の準備と執筆で忙しく、それを中断していました。しかも今年は、大学で二年生の講読の授業がなくなり、フランス語を読む機会が激減。最近は、話していても重要な単語が出てこないなど、フランス語力が多少「錆びついている」ような印象があります。少し「リハビリ」しないといけませんね。

 

ジョージ・オーウェルの『一九八四年(新訳版)』(原著1949年、邦訳2009年)を読了しました。20世紀の英米文学で最も有名な小説の一つです。

 

舞台は架空の1984年、世界は「オセアニア(おおむね、南北アメリカ大陸+イギリス連邦諸国)」、「ユーラシア(旧ソ連諸国+ヨーロッパ)」、「イースタシア(中国+日本+朝鮮半島)」の三大国が支配し、これら三国は空白地帯(北アフリカ+中東+インド+東南アジア)で軍事衝突を続けている。オセアニアは「ビッグ・ブラザー(生身の人間ではなく、「党」の象徴)」が率いる全体主義国家で、一般市民は街中の至る所、および個人の住居内にまで設置された双方向の情報伝達装置「テレスクリーン」によって監視されている。そして「ビッグ・ブラザー」に反抗する者は皆、「思考犯罪」を犯したとみなされて「蒸発」し、その生存の痕跡すら抹消されてしまう。

 

オセアニア政府には、「真理省(歴史の改竄や情報操作を担当する)」、「愛情省(秘密警察、反体制派の逮捕・拷問・粛清)」、「平和省(戦争)」、「潤沢省(経済)」の四つの省があり、国民は「党中枢(指導部)」、「党外郭(一般党員)」、人口の85%を占める「プロール(下層階級)」の三つの階級に分類されている。われわれが生きた実際の1984年と比較すると、経済発展は大幅に遅れており、「党中枢」以外の国民は非常に貧しい。

 

さて、主人公のウィンストン・スミスは39歳。両親と妹は彼の幼少期に「蒸発」しており、妻も結婚15ヶ月で別居して、現在は消息不明である。彼は真理省で記録の改竄に従事しているが、ある日、同僚の美しい女性ジュリアに手紙を渡されて、逢瀬を重なるようになる・・・。

 

「全体主義」や「管理・監視社会」を批判した作品として高く評価されるようですが、現代の「文学」として本当に優れているか(例えばクリステヴァの「意味生産性」などを援用して議論したら)は、微妙。

 

でも、設定やストーリーは面白いし、全体主義社会の圧迫感・息苦しさはよく描かれていると思う。

 

政治評論等、いろいろなところで言及されますし、「教養」として読んでおくべき作品の一つだとは言えるでしょう。

 

なお、巻末のトマス・ピンチョンによる解説は秀逸です。

 

『デモクラシーの擁護/再帰化する現代社会で』(ナカニシヤ出版、2011年)第四章「再帰性とデモクラシー・もう一つの起源」(著者:宇野重規東大教授)を再読しました。前回赤ペンでチェックした箇所とその周辺だけの「斜め読み」です(だから以下の要約は間違っているかもしれませんw)。

 

著者はまず、アメリカの政治哲学が専らリベラリズムの枠内で展開されたのに対し、フランスの政治哲学はマルクス主義および全体主義との対決を重要なモチーフとしていることを指摘する。その上で、フランス革命を受けて生まれたフランス・リベラリズムの思想(トクヴィルやコンスタンに代表される)が、1980年代になって再評価された点に注目する。

 

著者によれば、このリベラリズムの特徴は、「(アメリカ・リベラリズムのように)人権の担い手としての(非時間的で)抽象的な個人」から出発するのではなく、「時代や社会の状況と分離」することのできない「社会的存在」としての「個人」を前提しつつ議論を進めることである。そこにおいて「個人の自律」と「社会の自律」は密接に関連しており、後者なくして前者を確保することは不可能である。「社会の自己コントロール能力の向上(=デモクラシーの改良)なくして個人の自律もありえない」と考えるのである。

 

こうした視座の下、著者は80年代以降のフランスの四人の政治哲学者たちを紹介します。コルネリュウス・カストリアディス、クロード・ルフォール、マルセル・ゴーシェ、ピエール・ロザンヴァロンの四人です。彼らに共通しているのは、通常の「政治(=議会や政府の活動、マス・メディアによる批判など)」とは区別された(それぞれ呼び方は異なるが)「政治的なもの」を探求することである。ここで「政治的なもの」とは、その政治社会を成立させている「構成原理そのもの」、社会の構成員たちが前提している「共通の基盤」、「人々の活動や言説を束ねている」「総合的な解釈枠組み」のことである。私なりに換言すれば、それは「その政治社会における究極的『正義』」と言ってもいいでしょう。(以下、著者は明言していませんが)政治哲学の使命は、その政治社会の構成原理である「政治的なもの」を析出し、それを検証し、もし「政治」が「政治的なもの」を裏切っているなら「政治」を修正するよう進言し、もし「政治的なもの」そのものが不正義を含んでいるのなら、それを指摘し、そのような不正義を除去ないし(それが不可能なら)緩和するよう提言することなのである。

 

勉強にはなりましたが、この手の「紹介」は、視野を広げることには役に立っても、実際に彼らの原典を読まない限り、それ以上の効果はありません。そして私としては、彼らよりむしろ、ドゥルーズやジャン・リュック・ナンシーの方に触手が伸びてしまいます。

 

(承前)最後に「絶対的民主主義」。アントニオ・ネグリ=マイケル・ハートによれば、「帝国」とは世界大に広がる外部なきものであって、「グローバルな交換を規制する政治主体であり、世界を統治する主権権力である・・・帝国は、権力の領域的中心を持たず、固定した境界や障壁に依存しない。それは脱中心的・脱領土的な」「政府なき統治」の装置である。暴力的に単純化して言えば、それはグローバルな経済と政治権力が合体した「世界の全体」である。こうした「帝国」を支えると同時に解体へと導き、新たな世界を創造する主体が「マルチチュード」である。それは一方で特異性・個別性が維持される「多」、他方で未来に向けて「共同の政治的プロジェクト」を志向する「共」によって特徴づけられる。これも単純に言えば、グローバルな資本・権力=「帝国」に抵抗する全世界の人々のネットワークのことである。著者はまず、そのようなマルチチュードの始動が「混沌を生む可能性」を指摘する。それは「共同のプロジェクト」に結集するのではなく、「万人の万人に対する闘争」に至るかもしれない、と言うのである。さらに、国民国家、民族や人種、宗教共同体など、より閉鎖的な集団化に執着する人々は(「外部」なきはずの)マルチチュードの「外部」に位置することになり、「反-帝国」の政体構成から排除されていく。他方で著者は、国民国家の体制下で「サバルタン(=自らの声を持たない下層階級の人たち)化」された人々の声を、マルチチュードは聞き取ることが出来るのかと疑問を呈します。

 

われわれは国民国家という「故郷」を喪失し、次のような両義性を抱えた者である。すなわち、一方で放浪者となるか、失われた「故郷=国民国家」を再興するか、他方で「故郷」から自由になり、新たな第二の故郷を創設する可能性に賭けるか、という両義性である。われわれはこの両義性を受け入れ、様々な事情にある多様な他者たちとの間で対話を継続し相互に変容していくデモクラシーによって、共存の道を模索していかなければならない、と著者は最後に結びます。

 

勉強になりました。

 

ネグリ=ハートについては、この夏休みに『帝国』をざっと読み返し、継いで『マルチチュード』と『コモンウェルス』を読みましょう。

 

『デモクラシーの擁護/再帰化する現代社会で』(ナカニシヤ出版、2011年)第二章「政治共同体の構成と現代デモクラシー論」(著者:山崎望/現在は中央大教授)を再読しました。前回赤ペンでチェックした箇所とその周辺だけの、一種「斜め読み」です。

 

著者はまず、「第二の近代」における世界秩序の変容と、それに伴うデモクラシーの危機について分析します。「われわれ=国民」と「国民国家」の自明性が解体する中で、それらに基づく「ナショナルなデモクラシー」もまた機能不全に陥っている、と言うのです。

 

その上で著者は、新たなデモクラシーの可能性として三つの選択肢を検討する。デイヴィット・ミラーの「リベラル・ナショナリズム」、ハーバーマスの「熟議民主主義」、ネグリ=ハートの「絶対的民主主義」(←この呼称が適切であるか否かは議論の余地がありそうです)である。

 

まず「リベラル・ナショナリズム」は、「国民」という概念の作為性を認めた上で、それを「最適の現実」とみなし、政治的主体としての「国民」の必要性に訴える。それは民族的・文化的少数派の排除を直接に志向するものではないし、「国民」の内容や定義は「熟議」を通して変化しうるものであるとする。しかしながら、著者はこの政体構想を却下する。それは否応なしに「国民」から排除される人々を生み出すし、「(正統な)国民」と諸マイノリティとの間に序列を生じさせる危険性も高いからである。さらに、「国民」の同質性を前景化することは、世代や階級など、その内部の差異や多様性を隠蔽・抑圧するリスクも存在するからである。また、著者によれば、この構想が想定している諸条件が妥当するのは、ほぼ西欧先進国に限られており、それを世界秩序構想として提唱するのは欺瞞である(著者は具体例を挙げていませんが、例えば中東のクルド人居住地域や深刻な民族対立が存在するアフリカ諸国を想起すればよいでしょう)。 

 

次に「熟議民主主義」はその政治的主体として、「市民」を析出する。その際、個人の社会的地位、職業、民族、宗教やジェンダーなどの「属性」は括弧にくくられる。「市民」とは、様々な場面(それは場所・時を限定されない)で形成される「公共圏(=公共的な意見が構成される場)」において、自らが関心を持つ事柄についての熟議に参加する者の謂である。各「市民」は熟議を通じて自らの意見を修正しつつ、最終的な合意を目指すことになる。しかしながら著者によれば、そのような「熟議民主主義」もいくつかの「排除」を含んでいる。まず、熟議のための資源を持たない者、あるいはそのように判断された者は排除されるリスクがある。この民主主義は「冷静さ」や「理性的、論理的なコミュニケーション能力」を要請するからである。さらに、この民主主義は、各人が熟議を通して自らの選好やアイデンティティをより普遍的な合意へ向けて変容させていくことを前提するが、そのような変容に断固として抵抗する人々も存在する。著者はそうした理由から、この政治的立場にも与しない。

 

長くなったのでここで一旦切ります(この項続く)。

 

(承前)最後に著者たちは、上記の三つの困難に対処するためのオルターナティヴとして、ネオ・ナショナリズムとリベラリズムを検討します。

 

まず著者たちは、前者(彼らは言及していないが、例えば「アメリカ・ファースト」)が、三つの困難に対するある程度の「解毒剤」になりうることを認めるが、それは決定的なものではないこと、それが掲げる諸政策には現実性がないこと(ex. 移民を制限しても構造的な失業問題は解決しない)、それが包摂と排除にまつわる「暴力」を内包しており、かえって問題を悪化させるばかりであることを主張する。

 

リベラリズムに関しては、「リベラル・デモクラシー」という言葉があるように、著者たちはそれがデモクラシーと補完的な関係にあることを指摘する。「個人の自由や権利の実現のためには、それを可能にする政治制度としてのデモクラシーが不可欠であり、逆にデモクラシーが健全に営まれるためには、個人の基本的な自由と権利が保障されていなければならない」からである。しかしながら、前世紀の終盤以降、フリードリヒ・ハイエクの「小さな政府」論に支えられた「新自由主義」の思想が、デモクラシーの適用領域を制限しようと試み、後者との間に新たな緊張関係を生んでいる。

 

そうした認識に基づき、著者たちは前記の「三つの困難」を巡って、リベラリズムを検討します。まず第一の困難(個人の負担増大)については、リベラリズムが個人の自由な選択を絶対視している以上、それはそもそもそのことを問題と見なしてはいない。次に第二の困難(私的問題と公的問題の媒介)に関しては、リベラリズムがそれを等閑視していないことは認めつつ、公私の区分それ自体が「熟議=デモクラシー」によって常に問い直され、その境界線が引かれ直されなければならないことを強調する。第三の困難(異なる価値観の衝突)については、リベラリズムは「多元的な世界観・価値観の間での対話と交渉の可能性」を考慮していないと考える。その上で、著者たちはデモクラシーが「対話と交渉を通じ、個別の世界観自体が変化していく可能性を重視」します。

 

このように、著者たちによれば、再帰的近代が抱える諸困難に関しては、リベラリズムの有効性もまた限定的であって、「リベラルな価値をよりよく実現するため」には、「デモクラシーの可能性をさらに模索することが不可欠」なのである。

 

以上、再読して大変勉強になりましたが、二点だけ指摘しておきましょう。

 

まず、再帰的近代化がもたらす「三つの困難」は、アンソニー・ギデンズやウルリッヒ・ベックの著作に基づいて列挙されているだけで、その三つしかない(あるいはその三点が最重要である)ことが証明されているわけではない。より具体的に言えば、地球温暖化や経済格差の拡大(それらも再帰的近代の産物であろう)を解決・緩和するためにデモクラシーが有効であるかは議論されていない(もとより、そのために権威主義的政治を選択することは論外であろうが)。

 

第二に、現代を「再帰的近代」と定義することが妥当なのか否かには、議論の余地がありそうだ。実際、アントニオ・ネグリは『さらば、“近代民主主義”』で、近代とポスト・モダンとの間には明らかな「断絶」があると書いていた。共産主義を目指すネグリと本書の著者たちの視点の違いから来るのだろう。

 

他方で、柄谷・浅田はどこかのシンポジウムで(政治・社会についてではなく、思想や文化についてだが)、「モダンの後にポスト・モダンがあるのではない、それはモダンをずらしたところにある」という趣旨のことを述べていた。この「ずらす」という表現(それは思想・文化に関しては理解できるが)を政治哲学に適用すると、どんな結果を生むのだろうか。じっくり考えてみたい。

 

宇野重規・田村哲樹・山崎望著『デモクラシーの擁護』(ナカニシヤ出版、2011年)第一部「共同綱領/デモクラシーの擁護に向けを」を再読しました。前回赤ペンでチェックした箇所とその周辺だけの「飛ばし読み」です。

 

ここで著者たちは現代を「後期近代」あるいは「再帰的近代」と定義する。それは発展を遂げた近代が、自らに対し再帰的にその影響を及ぼし、自らを変容させる時代である。著者たちはあまり具体例を挙げていないが、例えば、情報化した社会が情報強者と情報弱者を作り出すとか、グローバル化の進展が移民問題を引き起こすことなどを想起すればよいだろう。

 

著者たちによれば、そうした再帰的近代はそこで生きる諸個人にさまざまな困難をもたらしている。まず、「個人の負担の増大」。つまり、依拠すべき絶対的な価値が失われた世界で、諸個人は自らの責任で意志決定をすることを強いられる、ということである。第二に、「私的問題と公的問題の媒介」の衰退、消滅。ほとんどの問題が個人で対処すべき「私的」な問題とされてしまい、それが「公的」な問題としては提起されず、結果として政治の場面そのものが縮小してしまう、ということだ。第三に、異なる価値観の衝突。従来は「伝統」の存在によって、他の価値観や生活様式は単に「なじみのないもの」、自分とは関係のないものとみなされていた。そうした伝統が自明視できなくなったことにより、異なる価値観同士の衝突が激化し、和解不能な紛争・対立に至ってしまう、というのである。

 

再帰的近代化が生じさせるこれら三つの困難を前に、著者たちはデモクラシー、特にハーバーマス流の「熟議民主主義」の有効性を主張します。

 

まず、第一の困難に対して、私たちはデモクラシーを通じて、個人の意志決定のための「範例と形式」を形成することができるだろう。それは具体的には、「連帯」「信頼」「社会的紐帯」などである。さらに、デモクラシーによって意志決定そのものが集合的に遂行されることもあるだろう。

 

第二の困難については、デモクラシーは私的・個別的な問題を公的で集合的な問題に変換する機能を持っている、と考える。著者たちはそれに加えて、公私の区別そのものが熟議によって決定・変更されるべきものであることを力説している。

 

第三の問題について、著者たちは、デモクラシーは異なる価値観を和解・調停する役割を果たすことができる、と主張する。デモクラシーを介して、多元的な価値観の間での対話と交渉の可能性が生じるし、そうした対話と交渉を通じて、個別的な価値観が変化していく可能性も生まれるだろう。

 

長くなったので、ここで一旦、終了します(この項続く)。

 

学期中はまとまった時間が取れず、読書にあてる時間もほとんどない。今年は土・日・月と三連休になるのだが、土曜は前日の授業の「後片付け」(←ペアを組んでいる先生への報告、配布したプリントを大学のサイトにアップし、場合によってはそのプリントを若干修正する、など)をし、読み残した新聞記事を読みきると、もう夕方になっている。さらに英語とフランス語の語学研修(土・月は英語を一コマずつ、日曜はフランス語を二コマ)もある。

 

だから今年は学期中は新しい本を読むのは諦めて、以前読んだ本を読み返そうと思っている。本の全体を読み返す必要は無いだろう。赤ペンでチェックした箇所とその周辺だけを読めば、大まかな内容は分かるから。

 

と言うことで、福田和也さんの『日本の近代/上・下』(新潮新書)を読み返してみました。歴史書(←事実の記述が大半を占める)という性質上、今回は飛ばし読みではなく、全体を読みました。

 

前回は2013年の7月に読んだのですが、内容については全くと言ってよいほど覚えていなかった。

 

記述は多岐にわたるので、二点だけ書いておけば・・・

 

日露戦争がほとんど「総力戦」だったことには驚いた。

 

アジア太平洋戦争前および戦中の政府と軍の迷走ぶりは、いろいろなところで読みましたが、本書でもその問題は詳細に語られています。明確な「国家意志」といったものが無い。陸軍と海軍が対立していただけでなく、陸軍・海軍そのものの中でも対立があった。

 

著者の博識ぶりには、毎度のことながら驚嘆します。

 

勉強になりました。また3年ほどしたら、読み返そうかと考えています。