『デモクラシーの擁護/再帰化する現代社会で』(ナカニシヤ出版、2011年)第四章「再帰性とデモクラシー・もう一つの起源」(著者:宇野重規東大教授)を再読しました。前回赤ペンでチェックした箇所とその周辺だけの「斜め読み」です(だから以下の要約は間違っているかもしれませんw)。
著者はまず、アメリカの政治哲学が専らリベラリズムの枠内で展開されたのに対し、フランスの政治哲学はマルクス主義および全体主義との対決を重要なモチーフとしていることを指摘する。その上で、フランス革命を受けて生まれたフランス・リベラリズムの思想(トクヴィルやコンスタンに代表される)が、1980年代になって再評価された点に注目する。
著者によれば、このリベラリズムの特徴は、「(アメリカ・リベラリズムのように)人権の担い手としての(非時間的で)抽象的な個人」から出発するのではなく、「時代や社会の状況と分離」することのできない「社会的存在」としての「個人」を前提しつつ議論を進めることである。そこにおいて「個人の自律」と「社会の自律」は密接に関連しており、後者なくして前者を確保することは不可能である。「社会の自己コントロール能力の向上(=デモクラシーの改良)なくして個人の自律もありえない」と考えるのである。
こうした視座の下、著者は80年代以降のフランスの四人の政治哲学者たちを紹介します。コルネリュウス・カストリアディス、クロード・ルフォール、マルセル・ゴーシェ、ピエール・ロザンヴァロンの四人です。彼らに共通しているのは、通常の「政治(=議会や政府の活動、マス・メディアによる批判など)」とは区別された(それぞれ呼び方は異なるが)「政治的なもの」を探求することである。ここで「政治的なもの」とは、その政治社会を成立させている「構成原理そのもの」、社会の構成員たちが前提している「共通の基盤」、「人々の活動や言説を束ねている」「総合的な解釈枠組み」のことである。私なりに換言すれば、それは「その政治社会における究極的『正義』」と言ってもいいでしょう。(以下、著者は明言していませんが)政治哲学の使命は、その政治社会の構成原理である「政治的なもの」を析出し、それを検証し、もし「政治」が「政治的なもの」を裏切っているなら「政治」を修正するよう進言し、もし「政治的なもの」そのものが不正義を含んでいるのなら、それを指摘し、そのような不正義を除去ないし(それが不可能なら)緩和するよう提言することなのである。
勉強にはなりましたが、この手の「紹介」は、視野を広げることには役に立っても、実際に彼らの原典を読まない限り、それ以上の効果はありません。そして私としては、彼らよりむしろ、ドゥルーズやジャン・リュック・ナンシーの方に触手が伸びてしまいます。