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ゴキゴキ殲滅作戦!

念のために言っておくが、私はゴキブリではない。
さらに念のために言っておきますが、このブログはコックローチやゴキブリホイホイとは何の関係もありません。
本と映画と渋谷とフランスについての日記です。

ジャック・デリダ『エクリチュ-ルと差異』所収の「制限された経済から一般的経済へ/ある留保なきヘーゲル主義」を読みました。

 

大学院の指導教授お薦めの論文(「デリダ入門に最適」と)で、私は修士課程のときに旧訳で一度、博士課程のときにもう一度読み、さらに2013年に新訳で読んだのですが、今回は前回赤ペンでチェックした箇所のみをサラッと読み返してみた次第です。


デリダはここで、ジョルジュ・バタイユが『内的体験』で記述する「至高性」を、ヘーゲル『精神現象学』の「主人性」の「留保なき」先鋭化として読解します。そして両者の差異を「意味からの差異」とし、前者を、「制限された経済」としての後者を「一般的経済」の中へと「書き込み直す」作業だと主張します。

 

私は『精神現象学』は解説書を何冊か読んだだけで、原典は読んでいませんし、『内的体験』についてはほとんで何も知らないので、デリダのこの論文を読んでも、なかなか「ピン」と来ないのですが、それでも勉強にはなりました。

 

二箇所だけ引用しておきましょう。

 

・他のテクストと同様、ヘーゲルのテクストも一個の部品からできているわけではない。このテクストの欠陥なき一貫性を尊重しつつも、それでもこれを複数の地層に分解して、テクストが自分自身を解釈しているということを示すことが可能なのである。それゆえ、各々の命題はどれも一つの解釈であって、それは解釈に関する一個の決断に従属している。(←これが「脱構築」の作業です/邦訳524頁)

 

・ 絶対知の地平の中を、あるいは「ロゴス」の循環性に従って、進んでいた精神の現象学がこうして転倒されるというわけではない。単純に転倒されるのではなく、それは包含されるのである。ただし、認識的な理解によって理解され包含されるのではなく、現象学に備わる諸々の知の地平と、諸々の意味の形象と共に、一般的経済の開けの中に書き込まれるのである。(←「脱構築」の定義です/550頁)

 

ジャック・デリダ著『哲学における最近の黙示録的語調について』(白井健三郎訳、朝日出版社)を読了しました。1980年、スリジー・ラ・サール(フランス)で開かれたデリダについての研究討論会で、デリダ自身が行った講演の記録です。学生時代に仲間たちとの原書講読会で読み、翻訳が出た直後に再読し、今回は三回目の読書でした。

 

タイトルはカントの小論文「哲学における最近の尊大な語調について」(1796年)を変形したものです。カントはこの論文で、合理的な理性を軽視し「超自然的な啓示」に訴える「奥義伝授者」たちを告発しつつ、そこに「哲学の死」(カント自身の言葉)を見て取ります。デリダはこのことから「終末論」へと議論を進め、「人間の終末」「歴史の終末」「哲学の終末」など、「終末」一般について分析します。そして最後に、「終末論」を「脱構築」し、「差延」こそが「黙示録」としての「現前性の領野」を開くこと、「黙示録=現前性」は「差延」の効果であることを主張します。

 

この書物で著者は、「黙示」「黙示録」「黙示録的なもの」という用語を、多種多様な意味で用いています(「破局」「覆い取り=真理の開示」「終末としての真理」「真理の終末=真理の不可能性」「言説一般」「形而上学=制限されたテクスト」「一般的テクスト」「脱構築」など)。そのため「黙示なき黙示録」(「形而上学の囲い」のない「一般的テクスト」の意か)や「黙示録の黙示録」(「制限されたテクスト」の「脱構築」の意か)など、奇怪な表現が出現し、内容は相当に難解です。さらに邦訳では明白な誤訳も頻出。

 

大変勉強になりましたが、お読みになるなら「邦訳」は「参考」程度と考え、フランス語原典か、もしくは英訳でどうぞ。

 

 

 

ジャック・デリダ&エリザベート・ルディネスコの『来たるべき世界のために』(藤本・金澤訳/岩波書店)を読了しました。2001年に行われた「対談」(というより、精神分析家ルディネスコによるデリダへのインタビューと言った方が正確ですが)の記録で、邦訳は2003年の刊行です。「デリダ自身によるデリダの入門書」といった体の本ですが、一月は大学でテストやその採点、成績付けがあって、私自身勉強に集中できる状況ではないので、軽い気持ちで読めそうな本を読んでみた、という次第です。

 

全体は九つの章(「差異の政治」「予測不可能な自由」「動物たちへの暴力」「革命の精神」「死刑」など)から成りますが、「対談」という性質上それらの章は相互に浸透し合っていて、例えば「革命」についての章で、別の章の主題である「死刑」について長々と話すこともあります。

 

内容は平易で、訳文もこなれていて読みやすい。私はデリダ晩年の主題である「動物」や「死刑」については精通していないので、その点では勉強になりました。

 

デリダの思想全般について概略的に知るには、よい本だと思います。

 

パトリック・モディアノの『1941年。パリの尋ね人』(原題:Dora Bruder)を読了しました。1997年に発表され、著者のノーベル文学賞受賞(2014年)理由の一つにもなった作品です。

 

「今から8年前」、著者自身とおぼしき「私」(邦訳の序文では自分であると明言している)は、1941年12月の古い新聞を読んで「尋ね人広告」に目をとめる。「尋ね人」は、ドラ・ブリュデールという15歳の少女。探している両親の住所は「私」が昔からよく知っている界隈にあった。興味を持った「私」はドラについて調べてみようと思い立つ。

 

貧しい家庭に生まれ、キリスト教系寄宿学校の寮から「脱走」を繰り返し、16歳で逮捕され、半年後アウシュヴィッツで命を落とすユダヤ人少女の生の軌跡をたどりつつ、「私」は彼女の境遇に類似した自己の幼年時代、青春時代を思い出す・・・

 

10年以上前、原書で読み出して面白いとは感じず、10ページ程度で放棄してしまった「ノンフィクション小説」。最近になって、ノーベル賞の受賞理由だと知って、再度、フランス語で読んでみましたが、パリの通りの名などの「地名」やナチス占領下でのユダヤ人に関する「制度」など、分からないことが多く、結局、図書館で翻訳を借りてきて、「分からないときは翻訳を参照する」という形で読了しました。訳者が付した「訳注」と「パリの地図」は大変有益でした。

 

「最終解決/solution finale=ホロコースト」やユダヤ人差別をめぐる問題は、フランス国内及びヨーロッパでは重大かつセンシティヴな問題ですから、この作品が非常に高く評価されたことには納得します。しかし、この作家特有の「空虚感」や「虚無感」があまり感じられず、私としては積極的に他人に薦める気分にはならないですね。まあ、ラストはちょっと「ホロリ」としましたが。

 

モディアノが好きな方、ユダヤ人問題に関心のある方はどうぞ。

 

先ほど、今年の「仕事」を全て終了しました。

 

大学の授業自体は先週の金曜日に終わっていたのですが、「義務=しなければならない仕事」が残っていると、今ひとつ心が晴れないので、今できることは全部やってしまおうと考えた次第です(これは去年と同じです)。

 

で、大学の期末テストの問題と正解(←試験後、インターネットの授業支援システムで公開している)、基準点に達しない学生のための「追試レポート」の課題(=一昨年の試験問題ですが)と正解、あと二日だけ残ってる授業の「解説資料」(授業中に話すこと・板書することを全て文書化したもの←コロナ禍中にオンライン授業のために作成した文書を、毎年改良しています)を作成し、さらに来年度授業の「シラバス」も全て入力し、確定申告のための「決算書」と「今年の特殊事情」、「医療費明細書」も作りました。

 

今の段階でできることは、他には何もありません。これから発生する「経費」があるかもしれませんが、それは来年の「一月分」にしてしまいましょう。

 

昨年の「仕事納め」は30日のお昼前でしたから、今年はそれより4日早い「仕事納め」となりました。

 

それでは皆さま、よいお年をお迎えください。

 

山崎望編『民主主義に未来はあるのか?』(法政大学出版局)を読了(したことにw)しました。2017~22年にかけて行われた共同研究の成果で、10人の研究者による共著です。序論と各研究者による10本の論文で構成されていますが、私の興味を引いた6本のみ読んでみた次第です。

 

編者の山崎は、序論で「ナショナルな自由民主主義」の「危機」を指摘する。それはグローバルな市場と多数の国際機関、それに対する反動としてのナショナリズム、「ウォール街占拠」のような民衆による異議申し立て、さらにはポピュリズムや「ハイブレッドレジーム」(=ポーランドやハンガリーのような、形式は民主主義的であるが内実は権威主義的な体制)等々によって、「挑戦を受けている」と言うのである。

 

そのような現状認識の下、政治理論、政治思想史、比較政治、社会学と、バックグラウンドを異にする研究者たちが集結し、それぞれ論考を発表したものが本書です。

 

それらの論考の中で、私が特に興味深いと思ったのは・・・

 

第5章、内田智「『民主主義の危機』を超える民主主義の未来」。「そもそもなぜ民主主義であるべきか」という根本的な問いに対し、まず道徳的観点から、各人は「自らの生活を規定している規範や制度をめぐる正当化実践に携わる主体としての道徳的=政治的地位が承認」されなければならない(=自分が従わなければならない規範や制度を設定するに当たって、自分がそれに関わることができないとすれば、それは不正義である)、と答える。さらに、認知的観点から、「不確実性に満ちた政治の世界」においては、「熟議が認知的に『より望ましい』帰結をもたらす蓋然性」が高い(=専門家とされる人びとでさえ、自己に対する異論に全く直面しなければ、判断を誤ることがある)、と答えます。

 

 

第8章、山本圭「アゴニズムを制度化する――熟議/闘技論争の第二ラウンドのために」。著者はまず、「アゴニズム(=闘技民主主義」)の三つの特徴を指摘する、「構成的多元主義(=対立は合理的な諸原理によって調停されはしない)」「世界についての悲劇的ビジョン(=世界は受難や諍いから救済されることはない)」「対立を政治的善と捉える信念(=対立の積極的な役割を評価する)」である。次いで彼はアゴニズムの理論を五つに区分して、その特質を概説する。その上で、著者はアゴニズムの「制度的赤字(=それが具体的な制度として実現されていないこと)」を指摘し、アメリカの論者たちによる制度化の試みを紹介します。

この論文は、私にとって非常に有益でした。何より、ジャック・ランシエールやアラン・バディウが「アゴニスト」に分類されるとは、ちょっと驚きました。

 

編者(山崎)自身による、第9章「自由民主主義とBLM/右派運動」。著者は、ヴァルター・ベンヤミンの『暴力批判論』に依拠して、現代アメリカのラディカル右派運動(=排外主義・白人至上主義・ナショナリズムなどに基づく)と「BLM/Black lives matter」運動を「法措定的暴力」、それを取り締まり、現行の法=秩序を守ろうとする警察による力の行使を「法維持的暴力」と規定する。その上で、ナショナルな代表制民主主義による後者の暴力は「不可視化」されているとする。最後に、「アフォーマティヴ/afformative(辞書に載っていない語だが“非形成的”という意味か?)な出来事」が「決定不可能性の時空」を生じさせて「法措定に根拠がないこと」を明らかにし、ここに現れる「権力の空虚な場」こそが「民主主義の可能性の条件」だと主張します。「アフォーマティヴな出来事」とは、デリダの「脱構築」のようなことを言っているのでしょうが、説明が簡単すぎて、よく分かりません。

 

以前も書いたように、学期中は自身の研究に費やせる時間がほとんどありません。現在構想中の論文(来年の夏休みに書こうと考えている)にも、「黄信号」が点ってきたようにも感じます。

 

井上達夫『他者への自由』について、個人的な「感想」を書きます。

 

●井上が立脚するのは「公共的なもの」と「非公共的なもの」との区別である。その上で、前者には「正義」を、後者には「善」あるいは「善き生」を割り当て、「正義は善に優先する」と主張する。それが彼の言う「正義の基底性」である。つまり、「公共的=政治的決定」の根拠としての「正義」が基底にあって、それに基づいて個人は自らが信ずる「善き生」を追求する、ということだ。

さて、ここで「正義」とは具体的には「法の体系」や政府の「基本政策」を意味している。だとすれば、井上の言う「正義の基底性」は、言わば「当然のこと」ではないだろうか。特定の「善の構想」(例えばイスラム法)が「正義」を標榜し、政治的な決定の根拠となるような事態は、われわれ先進民主主義国の国民の目には、「異常」としか映らない。「正義」が、特定の「善き生の構想」に優先するのは、民主主義の「前提」である。

ロールズやサンデルは「正義(≒法体系や基本政策)の基底性」について、それを自明の前提とみなして言及していないだけであって、彼らもそれを承認しているのではないか。それとも、彼らが明示的には言及しなかった(それ故、彼らの議論にある種の「ズレ」や「揺れ」、あるいは「曖昧さ」を生じさせてしまった)問題を、明示的に論じたことを井上の「功績」とみなすべきなのか。

 

●本書で井上は、マイケル・サンデルとウィリアム・コノリーを完膚なきまでに批判している。それに対し、サンデルの研究者である小林正弥・千葉大教授や、コノリーの「研究者?」(少なくとも「翻訳者」)である杉田敦・法政大教授は、全く反論していないのだろうか(「反論した」という話しは聞いていないが)。

小林も杉田も、井上と同じく東大法学部学士助手を経験した「俊英」だ。井上の批判に対する彼らの意見を、是非とも聞いてみたい。

 

●井上はコノリーの「闘技民主主義(agonistic democracy)」において、後者が政治的闘技者間に生じるとする「闘争的敬意」を問題視している。闘技者の間に相互承認としての「闘争的敬意」が生まれるためには、互いに相手の力量を認めることが必要であって、それは「劣弱なる者もまた権利として要求しうるようなものではない」と言うのである。

しかし、私の理解では、コノリーの言う「闘争的敬意」は政治的闘争の「前提」であって、その「結果」ではない。つまり、政治的闘技者はあらかじめ相手に対し「敬意」を持った上で、闘技=討議に参加するのである。

私は来年、コノリーの「闘技民主主義」について論文を書く予定だ。その際、この問題にも言及してみようと考えている。

 

井上達夫さんの『他者への自由/公共性の哲学としてのリベラリズム』(増補新装版、勁草書房)を読了しました。著者は東大法学部学士助手(←学部卒業後、大学院に行かずに、いきなり助手採用)を経て、東大教授(現在は名誉教授)になったというスーパーエリートです。内容が難解であるだけでなく、欧文からの翻訳のような特殊な抽象的文体で書かれているため、読み切る(一旦読了後、赤ペンでチェックした箇所を再読しましたが)のに1ヶ月半もかかってしまいました。

 

著者によれば「政治的決定の正当化根拠となるべき正義原理は、『善き生(the good life)』の特殊構想――人生の意味・目的や人間の人格的卓越性を規定する様々な特殊構想――から独立した理由によって正当化されなければならず、またかく正当化された正義原理の要請が善の特殊構想の要請と衝突する場合は前者が優越する」。

 

社会を構成するメンバーは、各人が自分にとっての「善き生」を追求していく権利を持つ。多数派にとっての「善き生」を唯一の「共通善」とみなし、それを根拠に政治的な決定をなし、少数派の「善き生」を排除し弾圧するようなことはあってはならない。政治的決定の根拠としての「正義」は、個別的な「善き生」の構想からは独立した、「公共的な」理由で正当化されなければならない。

 

著者はそれを「正義の基底性」と呼ぶ。そして、そのような「正義の基底性」こそが、各人にとっての「善が豊かに開花する」条件だと主張する。

 

ここで言う「正義」とは、具体的には「法の体系」や政府の「基本政策」を指しています。当然、そのような「正義の構想」は一つではない。「正義」は、民主的な議論を通じて、日々、修正されていかなければならないのです。

 

本書は、こうした基本理念を詳説すると同時に、それに基づいてジョン・ロールズやマイケル・サンデルの理論を批判していきます。その議論には大変な説得力がある。

 

なお、表題にある「他者への自由」とは、私と異なる価値観、異なる「善の構想」を持った「攪乱者」としての他者との対話を通じて、私の価値観、私の「善の構想」を矯正していく「自由」、他者を触媒にした自己超越としての「自由」を意味します。

 

非常に難解で読みにくいが、良書だと思う。興味があったら、どうぞ。

ジャック・デリダの『他の岬』(高橋哲也・鵜飼哲訳/みすず書房)を読了しました。1990年に開催された「ヨーロッパの文化的同一性」についての討論会で行った講演の記録です。

 

ユーラシア大陸の西端の「岬(cap/キャップ)」であるヨーロッパは、自己を「世界文明あるいは人間文化一般にとっての突出した先端」としてイメージしてきた。本書はそうしたヨーロッパを「他のキャップ(岬・先端・方向性)」へと、「他者のキャップ」へと、さらには「キャップの他者」へと向けて「脱構築」しようとする試みです。

 

この夏の「最重要課題」のつもりで読み始めましたが、内容は後年の『マルクスの亡霊たち』(1993年)や『友愛のポリティックス』(1994年)で詳細に展開される議論のやや粗雑な「ひな形」といったところ。あまり面白くありませんでした。

 

それにしても、「差延」の概念(デリダは「概念」ではないと言っているが)や「脱構築」の手法(これもデリダは「手法」ではないと言いそうだが)が、それと名指されることなく示唆されていて、すでにある程度デリダを知っている読者でないと、読んでも全く理解できないと思います。

 

また、訳者はともに日本を代表するデリダ研究者ですが、(やむを得ないとはいえ)「誤訳」が散見されます。「わからない」と思って原文を参照してみると、八割程度は「誤訳」でした。原書をわきに置いて読むか、そうでなければ「わからない」箇所は読み流してしまうしかないでしょう。

 

と言うか、この本を読むよりは『マルクスの亡霊たち』と『友愛のポリティックス』を繰り返し読んだ方が有益かもしれません。

 

川上未映子さんの『夏物語』(2019年/文春文庫)を読了しました。文庫本の帯によれば「40ヵ国以上で刊行決定!」の「世界が絶賛する最高傑作!」です。

 

全体は二部構成で、650頁を超える大作。第一部は芥川賞受賞作『乳と卵』をリライトしたものです。物語の「現在」は2008年夏。10年前に大阪から上京し、バイトで生活しながら作家を目指して小説を書いている主人公・夏子(30歳)のもとに、姉・巻子(39歳)とその娘・緑子(12歳)がやって来る。豊胸手術に取り憑かれた巻子が、医師のカウンセリングを受けるためである。緑子はそんな母とも夏子とも口をきかず、コミュニケーションの手段はもっぱら「筆談」である...。夏子が小説を書いていることなど『乳と卵』とは「設定」が若干異なっており、分量も二倍近くに膨れ上がっていますが、根幹は同じストーリーを語っています。

 

第二部は2016年夏から18年夏。38歳になった夏子は、2年前に出版した短編集がテレビで紹介されてヒットして、現在は文筆業で生計を立てている。こうして職業上の「夢」を実現させた彼女の中で、今度は「自分の子供に会いたい」という「夢」が次第に大きくなっていく。パートナーを持たず、セックスに嫌悪を感じる彼女は「第三者精子提供」による妊娠を模索し始めるが、そんな彼女の前に現れたのが、大学病院での「精子提供」で生まれ、自分の生物学上の父親を探している逢沢潤だった...。

 

すでに死んでしまった人間たち、作中で死亡する人物、さまざまな事情でシングルマザーになった女性たち、結婚もせず子供も持たないキャリアウーマン、「精子提供」で生まれた逢沢とその恋人・善(ぜん)百合子、そしてその「精子提供」で子供を作ろうとする主人公。


異なる背景を持った多彩な登場人物たちが織りなす重層的なドラマは、誕生と生と死、人間の存在そのものが不可避的に孕んでいる問題を映し出す。

 

第一部で緑子が日記に書く、「わたしは気づいたことがあって、お母さん(←貧困の中でホステスをして一人で子供を育てる巻子)が生まれてきたんは、お母さんの責任じゃないってこと。わたしは大人になってもぜったいに、ぜったいに子供なんか生まへん」(107頁)。

 

第二部で善百合子が言う、「わたしはすごく単純なことを考えてるだけなの。・・・どうしてみんな、子供を生むことができるんだろうって考えてるだけなの。どうしてこんな暴力的なことを、みんな笑顔でつづけることができるんだろうって。生まれてきたいなんて一度も思ったことのない存在を、こんな途方もないことに、自分の思いだけで引きずりこむことができるのか、わたしはそれがわからないだけなんだよ・・・一度生まれたら、生まれなかったことにはできないのにね」(522ー523頁)。

 

自ら欲して生まれてくる者はいない。「欲する」ためにはすでに「生まれて=存在して」いなければならないからだ。「欲した」わけでもないのに、気がついたら「生まれて=存在して」いた、それが人間だ。ハイデガーはそれを「被投性」と呼んだ。サルトルは「存在の偶然性」と呼んだ。

 

本作は、そうした「存在の偶然性」を「女性=生む性」の視点から描こうとする壮大な試みです。サルトルの『嘔吐』に比肩しうる「傑作」という評価も可能でしょう。

 

絶対に、お薦めですね。