くさかはるの日記 -8ページ目

くさかはるの日記

小説『常世の君の物語』と『現世(うつしよ)の君の物語』を手掛けています。
ここでは日常のなんでもないことを書き綴っております。

結婚前夜――。

彩音はひとりベッドの中で眠れずにいた。

 

思えば彩音のこれまでの人生は、明日の結婚式のためにあったといってよい。

彩音は、人より見てくれがよかったため、幼い頃よりちやほやされて育った。

それで、自然と他人に好かれるような振る舞いが身についていった気がする。

目を閉じれば、小学校で好きな男の子のことをクラス全員にばらされ泣いてしまった思い出がよみがえる。

勉強が出来ると先生やクラスのみんなにちやほやされたから、毎日頑張ってドリルに向かってたっけ。

中学校の頃は、初めて告白をされたけれど謎の恐怖を感じてしまったために振ってしまったのだっけ。

高校生になり、初めて彼氏ができたんだ。

この頃から将来のことを考え始めて、それなりに勉強を頑張って国公立大学に現役で入学を果たしたんだ。

自分磨きに精を出し、努力の甲斐あって学年一のイケメンとつきあえたんだっけ。

そして、それなりに名の通った大手企業に無事入社して、営業成績一番の今の彼をゲット。

これまでの努力とその成果が華々しく蘇ってきたところで、彩音はぱっと目を開いた。

そんな苦労も明日で一応、区切りがつく。

明日の結婚式を終えたら、あとは夫の手綱をいかに上手く握るかにかかっている。

子供ができても基本的なことは変わらないだろう。

いかに家庭をうまくまわしていくかが勝負だ。

子供のことを考えたら仕事は休むか辞めざるを得ないけれど、それは夫とおいおい相談するとして、目下の悩みは明日のコンディションだ。

一生の記録と記憶に残る大事な結婚式だ。

失敗があってはいけない。

完璧で素晴らしいものに仕上げたい。

で、あるならば、主役の私がこんな夜遅くまで起きていてはいけないだろう。

先のことは今じゃなくても考えられる。

今は明日のために全力で寝よう。

彩音はそう結論付けると起き上がり軽く体操をして、静かに眠りについた。

いつものように、将来に対する一抹の不安を、これまでの自身の努力で打ち消しながら。

小学校の頃に買ってもらった壁掛け時計の秒針の音を、耳に心地よく聴きながら。

 

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「36番」

今日も俺は、いつものコンビニで、いつもの煙草を注文する。

メビウスの10mgソフト。

早速店内のごみ箱前でフィルムをはがす。

そして店先の喫煙所でまずは一本吸うのだ。

うまい。

家に帰って更に一服。

うまい。

これが長年の俺の日課。

だった。

 

そんな長年の俺の習慣を変えたのは、妻の妊娠だった。

なんでも、副流煙はおなかの子供に悪影響だとかで、俺は禁煙を約束させられた。

それでもベランダで吸っていたら離婚騒動にまで発展したので、それ以来、妻と一緒の時には吸わないようにしている。

これがつらい。

どれぐらいつらいかと言うと、襲い来る便意をわざと我慢するほどにつらい。

妻にはニコチン依存症だと言われたが、そんなことは誰も聞いちゃいない。

何の依存症だろうが俺の勝手である。

そういうわけで、妻のいないときを見計らって、俺は以前の倍は煙草を吸うようになった。

 

やがて娘が生まれた。

妻に似て美人の、目の大きな女の子だった。

名前を「彩音」と名付けた。

彩音は一年もすると俺を認識しはじめた。

妻の真似をして片言で「とーちゃ」と呼ぶので、かわいくて仕方がなかった。

二年もすると簡単な言葉をしゃべりはじめた。

するとこれまた妻の真似をしてか「とーちゃん、くさい」と言うようになった。

それで妻を叱ったことがあるのだが、彩音の口癖はなおらなかった。

 

そんな彩音が今度孫を見せに来るという。

「36…いや、92番」

俺は今日もコンビニで煙草を買う。

妻のため、娘のため、それでも禁煙できなかった俺だが、今度は孫のために少し努力してみようと思う。

いきなり禁煙は無理だから、まずは電子タバコから。

はじめての電子タバコは、口に合うだろうか。

俺は真新しいフィルムに爪を立てて勢いよく開封した。

 

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八月もお盆を過ぎたというのに、日差しの勢いは弱まることを知らないらしい。

母がまぶしくないようにベッド脇のカーテンを静かに引いてやると、真由美はひとり静かに丸椅子に腰かけた。

目の前の母には、もう元気だったころの面影はない。

生命維持のために必要最低限の管につながれ、母はこの一年、よく頑張っている。

「まだまだいけるわよね、母さん。それとも、もうあっちに行きたいのかしら」

物言わぬ母の両目は涙と目やにで濁っており、たまにぴくりとまばたきはするが、それは何かに反応しているからでは勿論ない。

病室の中に、たまに不規則に聞こえる母の脈拍を伝える機械音だけが響いている。

 

と、そのとき、真由美の胸に入っていたピッチがメロディを奏でた。

相手は看護師の吉岡だった。

どうやらカルテに不備があったようだ。

今年に入って何度目だろう。

プライベートで問題があっても職場では出さないようにしてきたのだが、決意だけでは駄目らしい。

身内の不幸なんて、この年になれば珍しいことでもないのに。

それでも、たった一人の母だもの。

仕事に影響が出るのも仕方がないじゃないか。

ね、母さん。

母の髪の毛をそっと額になでつけながら、真由美はそう、心の中で呼びかける。

思えば医者になったのを一番に喜んでくれたのは母だった。

その母がもうこの世を去ろうとしている――。

私、いい娘だったかしら。

真由美は呼びかける。

まぁいいわ、バリバリ働いて、あと四、五十年したらあっちで会いましょ。

だから急がなくてもいいからね。

最後に母の手をぎゅっと握って、真由美は病室をあとにした。

廊下に出ると、まばゆいばかりの日差しがあたりを照らしていた。

 

 

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訓練中に右足を骨折した。

独り身はこういう時、気楽なんだか心細いのか分からない宙ぶらりんな気持ちになる。

しかし、幸い消防士仲間に励まされて退屈はしなかった。

 

今日は病院でギプスをとってもらう日だ。

強烈なかゆみともおさらばだと思うと、いてもたってもいられない。

いつも愛想のない受付の女性を横目に、俺は松葉杖をつきながらエントランスをぎこちなく進む。

 

しばらく待合室で待たされた後、個室に呼ばれてみると、今回世話になっている女医がやってきた。

年齢は俺と同年代で、若い頃は美人だったことがうかがえる顔立ちをしている。

あらぬ誤解をうまないように視線を壁掛け時計へと移し黙っていると、簡単な説明の後、ギプスにカッターが入れられた。

説明は受けたものの、カッターで皮膚が切れないのが不思議だ。

最後には、はさみが入れられて、俺のギプスは無事外された。

久しぶりに現れた俺の右足は、白くふやけており、何より強烈な匂いがした。

「くさいっすね」

思わずこぼした感想に女医が「みなさんそうですから」と答える。

ならば安心、というわけにはいかず、俺は恥ずかしさを覚える。

そんな気持ちをはぐらかすように、俺は本当に久しぶりに右足を地面につけてみた。

ゆっくりと体重をのせる。

途端にぐらつき、ベッドに座り込む。

聞くと、数週間はリハビリが必要なのだそうだ。

体力には自信のある俺だ、年齢を重ね忍耐力もついている。

それくらい難なくこなしてやる。

淡々と今後の説明を続ける女医を前に、俺は静かな闘志をもやしていた。

 

せまい病室には、俺の右足が発する強烈な匂いが満ちていた。

 

 

私の名前は谷口加奈子。

結婚願望のない30手前の独身女だ。

仕事は医療事務をやっている。

 

さて、長年特に悩みのない生活を送ってきたけれど、最近はちょっと事情が違う。

上司である宮下さんが原因だ。

宮下さんは35歳の男性で、白衣が張るほど太っているのだが、問題はそこじゃない。

しばらく前から、宮下さんはひどく不機嫌な状態が続いているのだ。

というのも、指示を出す時なんかに、嫌味が混じるようになったのだ。

「なんでそんなこともできないの」とか「そんなの常識でしょ」とか。

噂好きの先輩たちに聞いてみると、どうやら宮下さんの子供が不登校になったらしいということだった。

正直、だからなんだというのだ。

職場で家庭の問題を言い訳にして不機嫌をまき散らさないで欲しい。

自分の機嫌は自分で取れと言うではないか。

大体、自己管理もできないほど太っている宮下さんだ、お子さんに対する教育の面でも問題があったんじゃないだろうか。

だいたい、奥さんは何してたんだろ。

ああ、そんなことよりさっきからまた足がかゆくなってきた。

そういえば仕事の帰りにドラッグストアに寄って買い足しておかないと、もうすぐ薬がなくなるんだった。

こういう時パートナーがいれば一緒に盛り上がれるんだろうけど。

でも下手に結婚して宮下さんとこみたいに子供が不登校になっても嫌だし。

うちは片親だけどそれはそれで大変だったって母からよく聞かされてるし。

独り身は年をとってからが大変だとは聞くけれど、そんなのなってみなくちゃ分からないし。

とりあえず今のところ私の悩みは水虫ということで。

それが何より幸せな証だと思う今日このごろだったりする。