愛するより信じる方が難しい「カホコ」の神セリフ 愛は真綿の拘束着 | かなこの「恋はときどき」

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 愛するより、信じる方が難しい――普遍的な真実だろう。恋愛にも、友人間の親愛にも、親子間の情愛にも通じる。ドラマ「過保護のカホコ」(日テレ系、水曜22時~)は、超過保護に育った大学4年のカホコ(高畑充希)が、恋を知って親離れし、大人になっていく物語。8月9日放送の第5話で、カホコの母・泉(黒木瞳)の過保護ぶりについて実母・初代(三田佳子)が諭す場面で、脚本の遊川和彦はこのセリフを言わせた。

 

好きになったハジメ(竹内涼真)の影響で、カホコは、自立するためバイトをしようと考える。だが、学生課での相談にもバイト先への面談にも、母が付いて来る。挙句、学童保育のバイト中にカホコが転ばせた子供を代わりにあやしてくれる。子供相手のバイトを「あなたには向かない」と断定する。

 

泉はいつもそうだ。我が娘が自分で考えるいとまを与えず、自我の芽を摘む。「あなたは〇〇でしょ」「そうよね、カホコ」と、自分が思う結論を押し付ける。ハジメいわく「バカが付くほど純粋で素直」なカホコは、何かが違うと思っても、「ママに悪い」と思うあまり、反論できない。それに付け込み、泉は「」という名の「真綿の拘束着」でカホコをくるむ。いつまでも独り立ちさせず、自分に縛り付けようとする。

 

少しずつ自立したいと思っているカホコが頼るのが祖母だ。カホコの様子に変化を感じ取った祖母は娘・泉に電話をかけ、大人になろうとしているカホコから距離を置いてやるよう諭す。泉は「後で後悔したくないだけだ、してやれるだけのことはしてやりたい」と反論するが、そこで祖母いわく。

 

子育てで後悔しない母親なんていないわよ。(中略)でもね、最後は覚悟決めるしかないわよ。たとえ子供が転んでも立ち上がれると信じて。愛するより、信じる方が難しいんだから」

 

 その通り!

 

 信じる方がよほど難しいのだ。愛している相手を、その人自身の行動に任せることは、相手への愛が本物なのか、それとも単なる自己愛なのかが試されることになる。

 

転んだ子供は、最初は立ち上がれない。だから親が手を差し伸べる。小さいころは仕方ないが、いずれ成長する。立ち上がる方法は、自分で覚えなくちゃいけない。その時に親にできることは、見守ることだけだ。覚えるまで信じて見守り、手を出さないこと。信じて待つこと

 

自ら手を出してしまった方がどれだけ簡単で安心か。でも、親がその我慢をしないと、子供はいつまでたっても自分で立ち上がり方を身に着けられない。その子にとって、必要なことを必要な時期に学べないことのほうが、それからの長い人生、ずっと酷なのだ。

 

 主語がどちらかを考えると、その「愛」が誰のためなのか、分かる。

 

 「私が」そうしてほしいから、そうさせたい。「私が」安心できるから、そうしてほしい。「私が」心配だから、あなたにそうしないでほしい。「私が」それが似合うと思うから、あなたにそう振る舞ってほしい。どれも、そうと思っている通りにしか、相手がすることを許さないのなら、それは束縛でしかない。相手への愛ではなく、自己愛だ。

 

愛という名のもとに相手を束縛することは容易だ。愛は体裁が良いだけに、たちが悪い。愛は善意で正義だから、反論しにくい。せっかく自分のためを思って言ってくれているのにと、相手の愛情を否定するような気がして、反対するのがはばかられてしまう。

 

だから、「あなたを愛しているから」「あなたのために良かれと思って」などと、言い訳に「愛」が持ち出される時は要注意なのだ。「あなたのため」と言いながら、その実、自分の好きなようにしろ、でないと許さないというのが本心だからだ。結局は自分のためだが、「あなたのため」という体を装う

 

親子だけではない。恋愛でも同じこと。

 

愛という名の拘束着は、どこまでも相手を束縛して離さない。束縛されることにいつしか慣れてしまった時が危険だ。その状態が心地よくなって、共依存になってしまうと、もう、自ら進んでは抜け出せなくなってしまう。用心した方がいい。

 

(2017・8・10、元沢賀南子執筆)