2010年9月18日(土) - 2 -

昨晩あまり休めていないため、新幹線に乗ってからすぐに睡魔が襲ってきた。
上野を出て、大宮のアナウンスを聞く前に眠りについていたようだ。意識の向こうで、大宮駅に到着したアナウンスが聞こえる。次に気付いたときにはすでに盛岡だった。


東北新幹線に乗ったことがある人ならご存知だと思うが、盛岡から八戸の間はまともに携帯電話を利用することができない。そう、トンネルが多いのだ。念のため、駅まで迎えに来てもらう時間を再度伝えようとおもったが、八戸についてから伝えることにした。


八戸に着き、いつもなら特急白鳥に乗って三沢まで行くのだが、いままで利用していた三連休パスから、スリデーズパスポートに変わった影響で、特急券が別売りになったため、三沢シャトルなる電車を利用することになった。
白鳥を利用するときは、移動がけっこうシームレスなのだけども、三沢シャトルは八戸駅で約15分程度の待ち時間が発生した。普段なら気にするほどの待ち合わせ時間でもないのだけど、なぜかイラついた。


三沢駅について、待ち合わせ場所で父を探した。なにせ実際に会うのは数年ぶり、しかも自分は視力がよくないので、けっこう近くに行くまで自分の父を判別できなかった。妻は父に会うのが初になる。父も妻も人見知りするほうだけど大丈夫だろうか。


とりあえず家に戻って荷物を置いてから病院に行くか、直接病院に行ってから荷物を置きに家に戻るかという提案を受けたので、まっすぐ病院に向かうようお願いした。


病院に向かう車の中、父はひとりでえんえんと話している。
こんなに饒舌だったろうか?数年ぶりに息子に会って緊張しているのだろうか?などなど幾つか思うところはあったが、まずは状況を確認するための質問を幾つかぶつけてみた。


絶対に大丈夫な状況とは言えない。お医者さんもどうなるかわからないと。けれども、助かったこと自体が奇跡であると。搬送されたときは心肺停止とか、ほぼ血圧ゼロとか。もう無理な状況からここまで持ち直したと。
あと、病状とは関係ないが、母が倒れた日の朝、父は母に渡すものがあって朝会っていたらしい。それが7時ぐらいのことで、そのときはいたって元気で、いたって普通であったと。


母が病院に搬送されたのが8時30分すぎぐらいらしいので、実際に倒れたのは父と会ってから約一時間後のことだろうか。たった一時間で直接的な外的要因もなく、人の生死を分けるようなことが起きるとは・・・。


そういえば、今回の母の搬送には幾つかの謎が残っている。


『救急車は誰が呼んだのか?』
『なぜ、最初に母の妹に連絡がいったのか?』


これが判明していないらしいのだ。


母の携帯には119の履歴はなかったし、家の近所の人は誰も救急車を呼んでいない。と、なると、自分で呼んだことになるのだろうか?心筋梗塞の前兆ってあるのかな?自分に起きることを予期して自分自身で救急車を呼べるものなのか?これは正直なところ答えがでていない。ただ、母が自分自身で呼ぶ以外に呼んだ人が思い浮かばない。


もうひとつ、何故最初に母の妹に連絡がいったのかが不明。母の持ち物の中に母の妹の番号、名前などを識別できるようなものはなかったらしい。


これらの謎はいつか解けるかもしれないし、解けないかもしれない。
ただ、ただ、まずは最初の壁を乗り越え、奇跡的に一命を取り留めたという事実、母の生への執着と、今この時も闘っている母を想い熱い気持ちがこみ上げてきた。


間もなく、私達は病院に到着した。
病室を知る父の先導で病院の中を進んでいく、土曜日で一般診療を行っていない病院はとても静かだ。
しかし、なんというか言葉では表現できない感覚で歩いている自分がいる。脱力しているというか、行きたいけど行きたくないというか、泣きたいのか笑いたいのか苦笑いしている…。


病室の扉をあけ、中に入ると様々な医療機器に囲まれたベットの中に母が横たわっていた。「あぁ、たしかに自分の母だ」それが最初の印象だった。次に、横になっている母の胸が大きく動いて呼吸していることに気付いた。私には、それが母の生命力の強さを表しているように感じた。


横で父が看護師さんと普通に会話しているのだが、父はなぜにそんなに軽口が叩けるのか不思議でならない。私は、正直今にも涙がこぼれそうだった。が、後ろに妻がいるので泣きたくなかった。変なプライドである。


私は、母を見ているのがつらいので、正直なところ、長居したくない気持ちになっていた。
本来であれば、今この時間、私達を駅まで迎えにきて、一緒にご飯を食べているはずの母がなぜこんなことに…
感情と気持ちの整理が上手にできないまま、言葉を発したら泣きだしそうな自分をなんとかコントロールし、父とも妻とも会話をしないように少し足早に病院を後にした。
2010年9月18日(土) - 1 -

東京発7時30分頃の新幹線のため、朝は5時ぐらいに起床する必要があった。
しかし、あまり眠ることができず、浅い眠りと目覚めを繰り返し、しっかり寝ることができたのは3時頃だった。
結局、2時間弱しか休むことができなかった。


- 昨晩、布団に入るまでは、母の知人にメールで状況を知らせていた。

母はWebメールを利用しているし、私は母のアカウントとパスワードを知っているので、母が頻繁にやり取りをしている知人は、受信トレイと送信済みから確認できた。


ただし、私の母の知人はすべてアメリカ人なのである。当然メールも英語で書かなければならないが、私はそこまで英語が得意ではないので、文面は妻にお願いした。


何通か送信すると、続々と返事が返ってくる!
日本の高齢の人よりも、海外の高齢の人のほうがITリテラシーが高いとはいえ、ここまですぐに返事が返ってくると驚きだ。しかも送信先は、アメリカだったり、オーストラリアだったり、ドイツだったりと様々なのに…遠く離れていても、即座に母を案じる返事を送ってくれる。母が築き上げてきた人とのつながりと、母が持つ人望を目の当たりにして、またしても涙があふれそうになった。


ただ、母のメールのやりとりの中には、会食を予定していた外人さんの名前はなかった。
今日の夜、彼のお家で私達夫婦と、母と、外人さんの家族とお食事をする予定だったのに、このままでは連絡がとれないまま、約束を破ってしまう。状況が状況であるだけに仕方ないのだが…


様々な想いを胸に東京駅に向かい、母の妹2人分のお土産を購入し、新幹線に乗り込んだ。
母が倒れてからもうそろそろ24時間経過するが、まだ母は闘っている。
2010年9月17日(金) - 3 -


17時近くになったがはやり何も手につかない。
もしも電話が鳴ったら、それが最終通告のような気がしてビクビクしている自分がいる。


随分と時間は早いけど、晩御飯を食べようと思った。


ラーメン。


母は東京に来るたびにおいしいラーメンが食べたいと言っていたし、私が産まれる前、つわりで気持ち悪くなったときなど、ラーメンを食べると落ち着いたという話を聞いたこともあった。そんなこともあって(?)私もラーメンが大好きだ。


倒れている母に代わり、今日はラーメンを食べようと思った。


そんなことしたって、何も変わらないって思うかもしれないけど、今の自分にできることは母が好きだったこと、したかったことを代わりにやってあげるぐらいしか思い浮かばない。
先の未来から今という過去を振り返ったとき、あのときラーメンを食べたからって言えるかもしれないし、言えないかもしれない。ただ、きっと、どんな些細なことであれ、今の時間を未来から振り返ったときに、何もしていなかったとしたら未来の自分はきっと後悔すると思う。たかがラーメンだけども。ね。


ラーメンを食べながら、母のことを想うとすぐに涙で溢れそうになる。もちろん、テーブルの向こうでは妻がラーメンを食べているし、他のお客さんも、店員さんもいるので、泣きだすことはないが…


私は、どちらかというと親に迷惑をかけているバカ息子である。どちらかというより、迷惑をかけっぱなしである。未だに親から小言を言われると通話途中でも電話を切ることもあるし、自分から親に電話をすることはない。メールが来ても返事を返すのが1週間後だったり、返事をしないこともある。実家だって、チケット代を出すから帰っておいでって言われない限り、自費で帰ろうとはあまり思わない。

当初から予定されていた、明日からの帰省予定だって、私の分のチケット代は母が出すというので、私の分のチケット代を立て替えて購入し、妻の分のチケット代を私と妻で出し合って購入している。普通は、「いいよいいよ、自分で出すから」ってところだよね…


私は親に迷惑ばかりかけてばっかりで何もしてあげてない。
母がたまにしてきた小さな親孝行は、母が私にしてきてくれたことを想うとあまりに小さなことだ。


母は12月の私達の結婚式を本当に楽しみにしていたし、孫の顔だってみていない。もしも、このままだったら母は無念であろう。父のギャンブルと借金に苦しめられ、一人息子の私からは冷たくされ、もしも、ここで亡くなってしまったら、一体、母の幸せはなんだったのか。


冷たくされながらも気遣って、いつでも心配して、大事に見守ってきた一人息子の結婚式、まだ見ぬ孫の顔。これが母をつなぎとめているのかもしれない。母にはまだやり残していることがたくさんある!


朝の段階では70%ダメだと言われた。
手術が終わっても50%ダメだと言われた。


私は、母の生きることへの意思と、自分の子供に対する強い想いを感じる。
予断を許さない状況ではあるし、心配ではあるが、必ず母は戻ってくると信じることにした。