【平岡公威=三島由紀夫】2024年1月14日金閣寺を私が焼いた日 | Diary of a Goat in NYC

Diary of a Goat in NYC

One Goat and her journey.

 

あぁ天才

平岡公威(ひらおかきみたけ)氏

もとい三島由紀夫

 

2024年1月14日(日)、午前2時過ぎ

遂に私もニューヨークで金閣寺を焼いた。

 

夜が深い寝息を立てる丑三つ時に

一人心臓を高鳴らせながら

金閣寺を焼いた。



 

アパート入り口の玄関付近にある

姿見鏡が内側についた物入れのドアが開きっぱなしだった。

その付近に自身の勉強机を置いているのだが、

本を読み終わって席を立ち上がって

パッと振り返ったら鏡に映る自分がいて、

まるでこの犯行を目撃された感覚そして

この世のものでない霊を見たような感覚に飛び上がった。

急いで姿見鏡のついたドアを閉じて

途中、居間の提灯型の電灯の影に怯えながら

ベッドに駆け込んで毛布を深くかけて眠りについた。

もう朝目が覚めたら私はこれまでの私ではない。きっと。

 

調べて見ると2024年1月14日(日)、

今日は三島由紀夫氏の

満99歳、数え年100歳の誕生日ではないか!

ハッピーバースデー🎂🎊


きっと鏡ごしに私の後ろに立っていたのは

三島氏だったのかもしれないと

思いを馳せながら

感慨に浸る日曜日となった。

 

感想

1950年7月2日午前3時に起こった

林養賢(はやしようけん)という

吃音障碍(きつおんしょうがい)を持った

当時21歳の見習い僧侶による放火事件が

小説「金閣寺」の題材

 

"題材"は三島氏自身の

所業(しょぎょう)ではないが、

この当時の社会を反映してしまったような

放火事件を

文学の域、芸術の域に引き上げ

現在にも残してくれた三島氏には脱帽である。

 

三島氏が現東京大学法学部の

法律学科を卒業しているからか

この小説はある意味

供述調書を読んでいる感じもした。

デリカシーに欠けるが林養賢君も三島由紀夫に

供述調書を書いてもらえるなんて正直羨ましい。

 

実際林養賢君がいなければ、

この三島由紀夫氏の超大作もなかったわけで、

なんだかそこは皮肉に満ちているが、

この事件がなくても事件に溢れた社会の中から

三島氏は別の事件を選んで

超大作を作っただろうことは間違いない。

  

「事実は小説よりも奇なり」

と言いたいところだが、

三島氏の小説を読むと

「小説は事実よりも妙なり」

と断言したくなる。


三島氏の小説は私に色んな緊張を与えた。

例えると「完璧な美の追求」がされた

平安貴族料理でもてなされたようだった。

Google検索結果:平安貴族料理



この料理を食べる時はしっかり正装をして

テーブルマナーも理解していないと恥を

かかされてしまうようなそんな感じがした。

食材は全て完璧な形で

いびつな形のものは事前に全て取り除かれ

下処理も全て完璧。

ニンジンも芋も丁寧に一つずつ面取りされて

インゲンも1秒の狂いもない完璧な茹で具合

隙が一切なく、煮崩れもない。

味付けも万人ウケする絶妙で上品な味

個人的には若干薄味気味だ。

器の大きさや色あい

そして料理との相性に至るまで

完璧に計算されていて

先ほども言ったが、隙がない。

ここまでくるとまさに神業。

食べるためにあるのか、見るためにあるのか、

とにかく私のような人間には勿体無いと

この料理の前に

一旦自分を卑下してしまうような料理

 

そんな小説が12ドル99セントで

楽しめるのだから

かなりの費用対効果だろう。

ごちそうさまでした。

 

ちなみに何故深夜2時まで

本を読んでいたかというと

昨日は旦那さんの手伝いで

ロールキャベツを作ったので

なんだか読書時間がなく

バタバタしていたからだ。

 

さて話題を金閣寺に戻すが

この「金閣寺」に出てくる

臨済宗で重んじられる禅問答*も

読後のインパクトが大きかった。

(*厳密には公案と言ったほうが良いのだろう。)

禅問答は修行者の疑問

指導者が答えるという

一連の「問答」から来ていて

指導者から与えられる課題は

「公案」とも呼ばれるそうだ。

禅宗の僧が悟りを開くために行う

修行の一種だそうだが、

思わず旦那さんにも話をして

二人でなんちゃって

「禅修行」を楽しむことができた。

 

「金閣寺」で取り扱われる公案:

南泉斬猫
(なんせんざんみょう)

趙州頭戴草鞋
(ちょうしゅうずたいぞう)

 

まぁ、上記タイトルだけもう少し

現代風の口語にしてみると

 

「南泉さん猫を斬(き)る」

「趙州さん頭に草履を載せる」

 

そんな感じだろうか。

この二つは繋がったお話らしい。

 

タイトルだけみると

禅僧の精神状態が心配される。

 

興味のある方だけ

下記の赤枠内を見てほしい。


南泉和尚(おしょう)さんは

「言えば救うよ。

言えないなら斬るよ。」

っと言うんですね。

 

あなたならどう答える?

こういうの大変面白い。

 

私なりの答え:

「南泉さん猫を斬(き)る」編

「和尚さん、もう猫はいらんけん、

このまま逃して、

草刈りに戻りましょう。」

っとかだろうか。。。。

 

私なりの答え:

「趙州さん頭に草履を載せる」編

これはどう回答すれば良いのだろう。

 

和尚さんにとって子猫は

珍しいものでもなかったのだろう。

だから子猫ごときに修行そっちのけで

騒ぐ修行僧に対してバカもんっと

思ったのかもしれない。

 

修行僧にとっては

本に書かれているように

仔猫は物珍しく

ついつい草刈り(修行)を忘れて

騒いでしまったのだろう。

 

趙州さんは敢えて何も言わずに

草履を頭に載せて和尚さんの部屋を

無言で退出しながら

「和尚さん、大目にみてやり。
殺しはいかん。」

っと和尚さんに伝えたのかもしれない。

 

草履自体は別に珍しくもないものだが

趙州さんの頭の上に載せられた時に

和尚さん自身がその瞬間に感じた心の動きは

まさにお昼の修行僧が仔猫に抱いた

物珍しさを感じる心に
類似していたに違いない。

心は動くもの、ただ、動く対象が皆異なる。

和尚さん、貴方の心は子猫に対しては

動かなかったかもしれないが、

今私の珍行動を見て動いただろう。

騒ぐのもしょうがないと思いませんか。

そう伝えるために

草履を頭に載せて退出したのかもしれない。

 

公案をどう解釈してどう答えるかは自由

それぞれの修行僧の「答え」や

「答えの組み立て方」を見て

師匠もそれぞれの修行僧の

悟りの状況を見るのだろうか。

正しい答えはないからこそ

相手の回答もしっかり聞く訓練もできるし

問答、相当面白い。

 

これらは禅の教科書でもある

無門関(むもんかん)

碧巌録(へきがんろく)と呼ばれる

書物に記載されているようだ。

三島氏ご紹介ありがとうっと思わず感謝した。

 

 それにしてもこの小説に出会わなければ

私は40歳にしてこの金閣寺放火事件を

知らないままだっただろう。

それは何と悲しいことか。

ただ40歳にこの小説を読んだからこそ

この犯罪を「認識の域」だけに留めておけた。

 

現在2024年、日本にもあからさまに

「憲法改正」など

戦争を予兆させるような動きが

出てくるようになった。

変動が迫ってくる世界、

秩序が崩壊しそうな世界で

愛国心の強い若者がこの小説を読んだら、

彼らのうちの誰かの、

社会から疎外された暗闇にある心のどこかに、

青白く燃える炎が着火しないだろうかと

恐ろしくもなった。


ただ、幸か不幸か

私達戦後教育を受けた世代からは

「愛国心」や「革命家肌」などと呼ばれるものは

綺麗さっぱり下処理され

都会っ子から田舎者まで

徳のない「文化的教養」

ベトベトに塗りたくられ

骨抜きにされているので

濡れたマッチで火を起こすより

この世代の心に着火させるのは

難儀なことであろう。


この本読んでみて欲しい。

きっと第10章を読む時、

主人公の溝口君(= 林養賢君)が

荷物を金閣の義満像の前に置き

行為(放火)の一歩手前まで来た時

貴方はどんな結末を

この小説に期待しただろうか。

小説があくまでもフィクションであるなら

実際の歴史とは乖離していても良いわけだが、

貴方は溝口君に、三島氏に

何を期待しただろうか。

私は放火を期待してしまった。

燃え上がる金閣寺を期待してしまった。

もう溝口君にはそれしかないと思ってしまった。


そうして

2024年1月14日(日)、午前2時過ぎ

遂に私もニューヨークで金閣寺を焼いた

のであった。


もし機会があれば次回京都に行くときは

必ず金閣寺を訪れて

燃えていない金閣寺を見て安心したい。