超スピリチュアル体験記 ~奇跡への階段~ -53ページ目

明智光秀の怨念??を霊視・・・・天海伝説の真相 江戸幕府の参謀長官の天海はいったい誰?


そして、この中心に居たのが、明智光秀その人だったのです。


しかし、中心に居た人物と言っても明智光秀はもうこの時点では他界されております。


明智光秀は山崎において、「こんな民衆が飢えで次から次へと亡くなったり、人が人の手によって尊い命を奪いあう時代は絶対にあってはならない。私はこの戦いで自分の一生を全うするであろう。しかし、仏の道を開けなかったことは無念。私の命を掛けた願いを受けてはくれないか。」というイメージをある若者(天海)のその生涯でもある未来に願い強く抱いたまま亡くなって居ます。

戦乱の時代、武力では絶対に平和は訪れないであろう事を悟った光秀は、仏法の力でいつの日か平和の世が来ることを信じ、自分は仏法僧名、天海である事を意識したまま成仏できずに山崎の戦いその日に、若者(天海)の未来に向けた、絶対に揺るぎない契りでもあるその意志にそのまま憑いて居たようです。実はその光秀の霊界に戻る事も出来ずに成仏出来ない魂エネルギーは怨念に近いイメージで、憑かれている側の天海にとっては、それ以降、癒されることのない日々であったものと思います。しかし天海の凄い所は、光秀と交わした約束の日からどんなに苦しくて心がおれそうになった時でも、「自分は一度死んだ身。この天海僧正は自分にあらず。御大将光秀公の御命、そして、世を統一し平和の世を願って、心なかばにして亡くなわれた方々の意志を受け継ぐ身。天の導きがある限り、霊界よりこの地に降り立ち天海の心の行くまま前を向くまで。」という絶対に揺るぎない信念を持たれていたようです。そんな中で天海が経験したことが、武力や仏法の力がどれほど大きく優れていても、心も身体も限りある人間世界に置いては武力や仏の力だけでは、今や過去は守れても未来永劫の安泰は保てる保証が全くないという事。のようです。


人間は殺傷を繰り返す動物。

人間が殺傷を繰り返さないためには、子宝を守ること、そしてその子供の成長の段階かの中から天海はそう考えます。そして、武(武力)、仏(仏法)、守(母の愛)という3つの柱があって初めての光秀公との約束でもある未来永劫の安泰に導かれる事を、光秀公の霊(霊界天海)の霊障教育の中に、その答えとして天海は導きだしたようです。

そうなのです。

天海伝説の明智光秀公は山崎の戦いでその生涯を終え、その魂が怨念に近い形となって天海の記憶やイメージの中で霊障教育課題としてその後も生き続けて居たのです。(秀忠、「秀」そして家光の「光」それらの光秀に因む名前もまた、天海が光秀公の怨念に近い霊障教育課題の影響で意図的に付けられた名前でもあるようです。)光秀は山崎の戦いの早朝にその命を持って平和の世の訪れを願うばかりでしたが光秀の願いもその祈りも叶うものではありませんでした。願いが叶えられなかった光秀の魂は、馬に乗って武士としての自分にさよならを言って、仏の世界の門を叩いたあの若者の純粋な心の中に一体となって憑いて居たのです。光秀は実はその身体が亡きものになった後も、自分が亡くなっている事には気がついてはおりませんでした。そして、あの若者である天海大僧正に多大なる試練を与えているものとも思いませんでした。光秀が魂の形となって霊界にも戻れずに念となって抱き続けていたことは、殺りくの無い平和の世です。そして、天界大僧正(若者)が願い思っていたことも同じ未来永劫の平和の世です。霊界に戻れない光秀の霊エネルギーの世界と、生を持って生きている天海の世界は違えど同じ信念を持ち得た二つの魂の連携プレイがなし得た結果が、

前向きな平和の世の実現だったのです。(その基本が江戸幕府260年のみならず、現代に至るのです。)

天海大僧正は武、仏、守をイメージする上でいつも光秀公の亡霊イメージが未来永劫の平和への架け橋の土台としてその中心にあったようです。そのため、天海大僧正の血筋でもある明智光秀との血の繋がりがある春日局の存在、そして、秀忠ではない天下の大将軍家康の血を次ぐ家光を将軍とすることで仏法僧天海として生きる目標は淘汰されたようです。

高齢となった天海は年老いた自分の出来る事として、平和の世を守るために日光の地にある建物を作ります。そして、天海は天海としての我が生涯のたった一度の我がままとして、その建物を建立している半ばのある月夜の晩に、ある大きな平野の見渡せる山に、3つの杯(さかずき)と1個のまんじゅうを持って供の者を2人を連れ、馬に乗って迎います。そして、山の中腹の大きな平野が見渡せる地に着くと、馬から降りその場所に3つの杯にそれぞれお酒を入れ、まんじゅうを3つに別けて、それぞれの杯と一緒に添えて置きます。

一つの杯と3分の1に分けられしまんじゅうは、今は亡き光秀公に捧げるもの。

そして1つの杯と3分の1に分けられしまんじゅうは、天海である私に。

そしてもう一つの杯と3分の1に分けられしまんじゅうは・・・・・・・

もう一つの杯?・・・まんじゅう?・・・はいったい誰に捧げる物だったのでしょうか?普通に考えましたら、信長、家康などと想像してしまう所だと思います。しかし、このもう一つの杯には天海自身のその生涯で一番望んで居た心でもあり、生涯叶えることの出来なかったもう一つの本当の気持ちが表現されて居たのです。


天海は大きな平野を眼下に見渡しながら、大粒の涙を流しながら声を出しある言葉を言われます。

「天来たり、己の赴くままに我が人生来たけれど、何が自分に出来たものか。すべて、光秀公、そして、時(とき)の方々の恩義に尽きること。平和の世が未来永劫にあらんことを願いつつ、この瞬間(とき)に天の導きこの場所で、生ある我が身がここに居られる事に感謝しつつ、願い半ばのこの天海と酒を酌み交わすことをお許して下され。武士の魂を捨てた我が若かりし頃の私が、一時なれど、ここにあらんことをお許し下され。」


もう一つの杯と3分の1に分けられしまんじゅうは、光秀公と約束を交わした若者に捧げられるものでした。


そうなのです、天海が捧げたもう一つの杯は信長、家康に捧げるものではなかったのです。山崎の合戦で20歳に満たない年齢で戦死した天界大僧正の武士の時の名である、斎藤利三の長男の斎藤利康公に捧げるものでした。斎藤利康は1564年生まれです。天海大僧正が108歳(~1643年)という高齢で亡くなわれたイメージが
そのままこの斎藤利康と繋がるものでした。(春日野局、お福の実の兄です。)天海大僧正は武士としての自分の魂に、戦国の世の平和を願い、心半ばに亡くなって行かれた方々を重ねてイメージしていたようです。


天海大僧正は杯の相手である2つの同志と杯を交わしながら

「天はこの地、この場所から、1石の石を大地(平野)という大海原に投げ入れ1石の石の波紋は迷うことなく全世界まで広がり泡となって消えてつ行く。我が一生は儚いものであるかも知れないが、天と海が一緒となったこの場所、この瞬間(とき)を生涯忘れる事はないであろう。仏法僧天海、今ここにありけり。」という、天の与えし天海としての生涯を生き抜いた魂の心と、老いぼれた身を纏いつつ目から溢れ出る大粒の涙を一緒にその場所に残します。(光秀、天海、そして武士として最後を終えられなかった若かりしの自分(利康)、その3つに分けられたまんじゅうが一つになって始めて淘汰される、我が人生なのだそうです。)天海は自分の一生は寂しい人生ではあったけれど、自分の生きた証がその瞬間にあった事を心に深く刻んでいたようです。そして天海は、ついに山崎の戦いを前にして光秀公との約束を守る事が出来ました。そして同じ杯を交わした今は亡き光秀公の魂もまた「うん、うん」とうなずき酒を交わしつつ天に戻る事が出来ました。

天海大僧正がこの月夜の晩に交わした杯で、

数え切れないほどの平和の世を願った戦士たちが天国に戻られた事は

霊界のみぞ知ることだったようです。


長々、私の信憑性のない天海伝説を読んでくださいましてありがとうございました。

いろいろとご意見もあるとは思いますが、あくまでも霊視的フィクション内容ですので
楽しんでいただけましたら幸いです。


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