「頭がいい人」というと、「話が面白い人」とか、「論理的に話ができる人」とか、そういう風に答える人が多いと思います。
でも、僕が思うには、これは非常に語弊があります。
なぜなら、彼らの多くは、「頭が良い」というよりも「口が良い」と言った方が早いからです。
「頭がいい」と聞かれて、なぜ「話が・・・」という議論になるのでしょう。
これは雄弁術に長けてるか否かの話であって、古代ギリシアの哲学観で言うところの、ソフィスト的見解です。
ソフィストは、多少の議論の余地はあれど、政治ポストに任用されんがために、巧みな話術で説得して指導者を説得して自論を売り込んだ連中のことを言うのが通説です。
ですが、その面だけを取ってソフィストを「賢者だ」と言う主張は、なかなかされがたいものです。
つまるところ、人間というのは「話が上手い」ことだけで「頭の良さ」を相対化して測ることなど不可能なのではないでしょうか。
僕は「頭が良いこと」と「話が上手いこと」は、互いに必要条件でもなければ、十分条件でもないのではないか、と思います。
例えば、口の達者なお笑い芸人を見ても、僕は彼らが頭がいい人間であるとは思いません。
人を笑わせる才能に長けていると評価できよう、されども、それが頭がいい人のための条件だとは思えないのです。
巧みな話術で相手を説得したり心を動かしたりするのが「知的な徳」であるならば、先述した通りそれはソフィストでしょう。
では、そもそもどうして「話上手」が無意識レベルで「賢者たる為の必要充分条件」であると認可されるようになったのでしょうか。
それは、やはりテレビの存在が大きいでしょう。
テレビ離れが叫ばれていますが、依然としてテレビ無しの生活が有り得ない世の中でしょう。
そんな現代にあって、我々はあまりにテレビナイズドされすぎた。
テレビナイズドされた国民。それはすなわち、「お喋り志向」を生み出したのでありました。
テレビが出てくる前、ラジオが出てくる前・・・つまり、「話し言葉」の飛び交う量や距離が飛躍的に伸びる時代より前のマスメディアは何か。
あるいは新聞、あるいは雑誌でありました。
もっとも、新聞や雑誌であれども、その文体が筆者の「頭の良さ」を測る完全な指標たりえるか、という問いに対しては、おそらく答えは「ノー」とならざるを得ないでしょう。
そもそも言語というシンボルに脳内思考を託す時点で、彼ら(=言語)が完璧な仕事を果たすことについては担保されていないということを知らねばならない。
簡単に言うと、言語では、頭で考えていることの全てを吐き出すことはできない、有限な存在である、ということです。
しかし、テレビに比べると、幾分かその再現性は高い。僕はそう考えます。
「書かれた言葉」は「話し言葉」に比べてある程度脳内を探るプロセスが予定されているからです。
2000字のスピーチをする時と、2000字の作文を書く時。時間がかかるのはどちらでしょうか。
当然ながら後者です。
なぜか。前者は「今、ここに」聞き手が想定されているため、その緊張感に押されて「脳内思考を炙り出すこと」よりも「その場で適切な言葉を述べる」ことが先行するのに対し、後者は真逆であるからです。
後者の方が「練られた言葉」であるという性質が強い。
ここで言いたいのは、単にレトリック的な、それこそ雄弁論的な見地から見た「練られた言葉」ではありません。
自らの思考を主観にありながら可能な限り客観的に分析し、それをプロセス化してはじめて言語というシンボルに託す。
完璧とは到底言えませんが、話し言葉よりはだいぶ精度の高い指標と言えるのではないでしょうか。
当初の議論から止揚されて見えてきたのは、結局「頭がいいか否か」という問いは、本来もっと高次な領域で見るべきものだということです。
すなわち、我々は、書き言葉によって不完全ながら彼の頭の良さを知る。
その時には、単なるレトリックや言葉の巧みさに惑わされずに、その人の思考を有限な言語からできる限り多く見取らなければなりません。
このプロセスは、書く方も読む方もえらく時間がかかるものであるため、もはや話し言葉の出る幕は消滅したと言っていいでしょう。
時間をかけ脳内を探る書き言葉ですら不完全であるのに、況や付け焼刃の話し言葉で脳内が読み取れましょうか。
だから、「話しが上手」という理由で「彼は頭がいい」と言っている人間は、どうも宇宙人としか思えないのです。