3.長崎(2) | 河童の川流れ 「いい夢見ろよ~ あばよ!」

河童の川流れ 「いい夢見ろよ~ あばよ!」

分かる人しか分からない落書きメモ。
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翌朝は長崎市から100Km以上離れた平戸島に

移動した。この島は初めてだ。

 

退職した先輩が住む出身地で、十数年ぶりに

顔を見るために訪れた。

無事に会え、そして殆ど変わっておらず

元気で良かった。

以前、お互いに宗教宣言していたので

ワタシが非活になったことを報告すると、

先輩は属する教会の活動を今も続けているという。

つもる話も終わり、帰り道でのお勧めスポットを

幾つか紹介されたので寄ってみた。

 

ひとつ目は鯛の鼻自然公園。

こちらの展望台は東シナ海を一望できる

絶景スポットだという。

あいにく曇り空で強風、気温も低く

多くは望めなかったけど、到着すると

小さなゴルフ場のような整備された綺麗な

公園で、夏場なら涼しそうで、平戸の代表的な

絶景スポットであることは間違いなく、

お勧めできる。

駐車場、トイレが完備されており、

あまり知られていない穴場だという。

 

この日は遠くは見渡せなかったけれど生月島と、

かすかに五島列島を見ることが出来た。

いつか五島にも行ってみたい。

映画「捨てがたき人々」には衝撃を受けたから。

 

生月島(右上)は橋が架かっているので

直ぐに行けそうだけど、周遊する時間が

無かったので断念。

自然公園内の散策にとどめた。

展望台の後ろを振り返ると何やら大きなお墓の

ようなものがある。

石碑を読むと、

「安らかに眠り給え 陸軍少年通信兵の霊」

とある。

戦没者の慰霊碑だった。

その建立趣旨の書かれた方の石碑によれば、

太平洋戦争で兵員増強のため16~19歳の

陸軍少年通信兵ほかが南方方面に船で

輸送された。

少年たちは輸送船団のうちの3隻の船に

分乗したが、米潜水艦により2隻が沈没。

少年通信兵200名を含む各兵科少年兵数百名、

全体では数千名の人たちが戦地到着前に、

ここから見える東シナ海周辺で海の藻屑と

なったとのこと。

亡くなった少年通信兵たちと同期の、

派兵を免れたり生き残った人たちによって

この慰霊碑が建立されたようだ。

まだティーンエイジャーの子供たちぢゃないか。

どんな気持ちで派兵されたのだろうか。

こんなところにも戦争の爪痕が

記されているんだな。

 

この公園への山道は舗装されてはいるけれど、

すれ違いが出来ない狭い所もあり、

混雑時は要注意。

ワタシが行った日は人っ子ひとりおらず、

すれ違うクルマにも遭遇しなかった。

この日の公園は、慰霊のためだけの空間の

ように感じ、とても寂しかった。

二人で題目を送った。

 

戦後80年の節目。

40年前の石碑の文を撮影したので文字起こし

しておこう。

 

慰霊碑建立由来

先の大東亜戦争中 昭和十八年十二月一日 

祖国の安泰を希う少年達が全国から応募 

陸軍各兵科少年兵学校に入校 

専門課程の教育を受けた陸軍少年通信兵学校

第十一期生一六〇〇名は 東京と新設の村松

(新潟県)の両校に入校し 通信隊幹部要員

として日夜猛訓練中 昭和十九年十一月 

激化する南方戦線へ兵員増強の為 

修業中途の吾等にも動員が下り 

急拠半数が選抜され卒業を繰り上げ勇躍母校を

後に出陣 各兵科から選抜された少年兵と共に

門司港に終結後 折柄満州配備から南方方面軍に

転進する 第二十三師団(旭)主力部隊の精鋭を

輸送する「ヒ第八十一輸送船団」の中 

陸軍輸送船 神州丸 秋津丸 摩耶山丸 

の三隻に分乗した

輸送船団には主力部隊の外 海上挺進戦隊

(特攻隊)数百名 各兵科補充部隊将兵が 

船団内の各船に分かれ乗船していた 

輸送船は逐次出港 護衛艦船の指揮により

船団の体形を整え航行中 米国海軍潜水艦の

魚雷攻撃を受け

十一月十五日 正午頃 五島列島白瀬灯台沖で

秋津丸 同 十七日 十八時頃 済州島沖

東支那海で摩耶山丸 の二隻が沈没の為 

十六~十九才の少年通信兵約二百名を含む 

各兵科少年兵数百名が水漬く屍となり戦死

したのは将に痛恨の極みである

星霜四十年 平和で豊かに繁栄の途を辿る

幸せな祖国で生きる私達は 茲に第二回慰霊祭を

執行 祖国存亡の危機に敢然防人となり戦場に

向う途中 初志空しく無念の最期を遂げた

戦友達を偲び 又両船の遭難により主力部隊

及び 船舶関係部隊将兵と共に数千名が 

祖国の「平和の礎」となり散華された事績を

後世に伝え「幾百万の尊い命を犠牲にした悲惨な

戦争の過ちを二度と繰り返さず」と誓い 

人類恒久の平和を祈念し 遭難海上を望む

最良の地に 地元各界のご理解を得て 

御霊に追悼の誠を捧げこの碑を建てた

本碑台座周囲と石垣の間に埋め込んだ小石は 

全国各地に散在する遺族と同期生 

学校関係者が「追悼の祈り」を篭め「碑を守る」

真心を表した小石である

昭和五十九年十月三日

陸軍少年通信兵学校十一期会

全国少通連合会

村松校十一期 岡本勝造謹書

 

つづく