両親が新しい炊飯器を買って来た時のこと。
ワタシは外出していたから事の顛末は後で聞いた。
父は買って来た炊飯器を食堂のテーブル横にある出窓に置いて、母は洗ったお米をセットして説明書を見ながら色々なボタンを押してみたという。
押すたびに「ピッ」と音が鳴るから分かりやすい。
多くの機能を確かめてみようとボタンを押していたら、突然「ピピピピピ……」とけたたましく鳴りだした。
「貴方大変、止まらない!」
「そんなことないだろう。あれ?あれれれ?」
「もうダメ、お店に電話して!」
「分かった、今電話する。
もしもし、今日買った炊飯器からピピピという音がして止まらなくなったんです。本当なんですよ。コンセントを抜くんですか?分かりました」
「抜くのね……抜いてもダメ―!音が大きくなってきた」
「止まりません。嘘じゃないです、大変なんです。分かりました、直ぐに持って行きます」
父親が慌てて炊飯器を出窓から持ち上げると、柱の陰から家政婦が! いや、目覚まし時計が現れて鳴っていましたとさ。
炊飯器、貴方は悪くないw
何かに集中していると感覚的にも心理的にも視野が狭くなることがある。
そして加齢に伴いその傾向は強くなるようだ。
また人間は、無意識ながらも楽をするために過去の経験を当てはめて思い込むことも多い。
ああしたらこうなったんだから、あれが原因に違いないと。
ワタシも最近、観察力が落ちて狭い範囲で前提条件を決めてしまうことが増えた。
でも取り組みの勢いはそれほど落ちてないから間違いに気づいた頃には相当突っ走っていたりする。
何ごとも最初から決めてかかってはいけない。
一旦、リセットする位の心の余裕が必要だw
「祈って動いたらああなったんだから、これは功徳に違いない」と思い込む。
その後、同じように祈って動いてもどうにもならないことが続くと、
「そんなはずはない、祈りが足りないのだ、活動が足りないのだ、業が深いのだ」
と考えて過去の功徳体験を手放せない。
因果関係が不明のものを安易に信じることは科学的ではないし、合理的でもないし、安全でもない。
考えることを放棄していたら、このループから抜け出せなくなる。
自分の中の原理・原則を三度裏切られたなら、原理・原則の方に疑いの目を向け、時には修正する勇気を持ちたい。
それを借りものの教学で正当化して認めないから、幸せから遠ざかる。
真理は発見されるものであり、宗教は発明されるものだという。発明品は時代と共に大きく進化するのが常だから、貴方の中で貴方用に貴方が発明したっていい。
それが謗法だとか言うのなら、そんなことをさせるようなナンチャッテ宗教の方に力が無いだけ。
自分の人生を自分自身で変えることを決意したって、貴方はちっとも悪くない。