日本人が長い歴史を経ても概ね変わらない日本人であり続けるのは、平和・文化・教育、言い換えれば、憲法や国防方針、伝統や価値観、義務教育などが、一定の範囲内で国民に共有され、代々それが引き継がれ手放さないからだろう。
これは他国でも同様のはずだ。
その一定の範囲内に、更に宗教という名の縛りをかけ、日本国民とは少なからず異なった思想を持つ王国を造ろうというのが会の目指した方向だった。
表向きは、平和・文化・教育主義であり、その根底は人間主義だという。
すべてを包括する上位概念を装っているが、実態は王国の地区村づくりだ。
会では多くの人が、平和・文化・教育とはかけ離れた活動をする日常がある。
会員は皆、自分自身の心の平和を願っている。
文化を守りつつ良い変化も取り入れたいと願っている。
自ら広い知を学び、他へも広げたいと願っている。
にもかかわらず、これらの願いに対して会は現場へのサポートを一切しない。
すべて自己責任で、時間とお金を捻出して勝手にやれと。
そして希少な成果は会のご利益だから体験発表しろと。
更にはサポートどころか、時間とお金と労力を会へ提供することが何よりも幸福への近道だと説く。
立派なことを掲げるが、実態が全く伴わないことが何十年も続いているのに一向に改善されないところを見れば、これが最初から上層の目指すものであり、会員は幻想に踊らされていると考えるより他ない。
多くの日本人は価値観や生活レベルが均質で、コントロールしやすい面があるのだろう。
会員はそこから少し逸脱した人たちも多いが、彼らも含めて、絶対正義の革命思想を与えられたことで、更なる強力な同一の価値観を有する大勢の仲間に加わることで、大きな安心感を得た。
同時に、桜梅桃李を説きながら、画一化した思考と行動が賞賛される矛盾が生じた。
桜梅桃李は会の内外間、即ち一般社会の「桜梅桃」と会内で統一された「李」の間でこそ存在し、画一化は師弟不二によって正当化された。
社会とはズレて異なっていてもいい。
自分たちで団結さえしていれば、これこそが社会全体としての桜梅桃李になるとでも言うのか。
このことに気づいたのは、もしかしてワタシだけ?
そんなことも無いだろうが、将来、指導や会則に織り込まれたら笑えない。
世の中が多様性を叫び出した。
桜梅桃李に似た偽善性を強く感じる。
言っていることは恐らく正しいのだろう。
しかし人間は感情の動物でもある。
好き嫌い、生理的な嫌悪感は厳然として存在する。
多様性を叫ぶにはそれなりの覚悟が必要だ。
人々に全てを受け入れる度量が本当にあるのだろうか。
嫌いなものを排除することが人権侵害だと言うのなら、
排除はしないが係わらない自由もなくてはならない。
好き嫌いは人から押し付けられるものではない。
理解はするが賛同はしないことだってある。
平和・文化・教育を唱え、本気で推進するつもりがあるのなら、前提とも言える多様性の認識について、末端の会員に分かるように指導しておくことが必須であろう。
機関紙では「多様性を喜び合う世界」とか「多様性を尊重」などとお花畑のスローガンを見たが、具体的な方法に触れることはない。
当たり前だ。そんな簡単なものぢゃない。
現代の釈迦とキリストとマホメットを集合させても答えは出ないだろう。
あの人は何をしている。
対告衆のいない記念提言で、93歳に似合わないSDGsに言及なんかしてる場合ぢゃない。
全部あなたがやるんでしょ?
元気なんでしょ、やってよ。 (机バンバン!)
ワタシ心配しないので。 (チ~ン♪)
話が硬いな。
ひと言でいうと会内で桜梅桃李を探すのはウォーリーより難しいということ。
なので半分でもいいから、トーリーをさがせ! という話。
なわけないかw