ニシムラマサキのブログ 【株式会社 西村工務店 代表取締役】【 SASAYA・うづかの森 オーナー】 -9ページ目

ニシムラマサキのブログ 【株式会社 西村工務店 代表取締役】【 SASAYA・うづかの森 オーナー】

どうすれば地域を『素敵』に変えられるのか、誇るべき田舎になるのか、そんなことばかり考えています。

長田弘さんの誌を貼り付けておく
私は自由の定義を誤っていたようだ

空と土の間で

どこまでも根は下りてゆく。どこまでも
枝々は上ってゆく。どこまでも根は
土を摑もうとする。どこまでも
枝々は、空を摑もうとする。
おそろしくなるくらい
大きな樹だ。見上げると、
つむじ風のようにくるくる廻って、
日の光が静かに落ちてきた。
影が地に滲むようにひろがった。
なぜそこにじっとしている?
なぜ自由に旅しようとしない?
白い雲が、黒い樹に言った。
三百年、わたしはここに立っている。
そうやって、わたしは時間を旅してきた。
黒い樹がようやく答えたとき、
雲は去って、もうどこにもいなかった。
巡る年とともに、大きな樹は、
節くれ、さらばえ、老いていった。
やがて来る死が、根にからみついた。
だが、樹の枝々は、新しい芽をはぐくんだ。
自由とは、どこかへ立ち去ることではない。
考えぶかくここに生きることが、自由だ。
樹のように、空と土のあいだで。

僕が普段山を走っているときに、必ず、超望遠レンズを構えた人たちがたむろする場所がある。

 

以前から、イヌワシを観察している人たちだというのは聞いたことがあったのだが、いつも横をスルーしていた。

 

今回、また例のごとく、その横を通り抜けようと思ったのだが、なんとなく気になって、立ち止まってそこの方に話しかけてみることにした。

 

その男性が、イヌワシのことについて、いろいろと教えてくれた。

 

今、兵庫県には、2つのペアだけが確認されていて、1つのペアは、瀞川山周辺に生息していて、もう1ペアは扇ノ山に生息しているということ。

 

全国では500羽あまりが確認されていて、レッドブックデータに登録されていること。

 

イヌワシは草原環境が広がる場所があるところに主に生息しており、スキー場などもその役割を果たしているということ。

 

イヌワシは、生態系の頂点にいる鳥であり、イヌワシの激減は、すなわち生態系全般の崩壊によるものだということ。

 

イヌワシはうさぎや、山鳥などを捕獲して生きており、森の豊かさが失われることで、これら小動物の個体数も減ってしまって、その結果イヌワシも生息できなくなってきていること。

 

…などなど、他にもたくさんお話をさせてもらって、ずいぶんと勉強になった。

 

ハチ北では、イヌワシの生息域を守るための活動として、大池周辺の整備が行われているが、まったくやらないよりやったほうがましだとは思うけれど、イヌワシの生息ということを考えた場合、最近よく言われる生物多様性の保全という広大なテーマに取り組まなくてはいけない。

 

再生の事例としてよく豊岡のコウノトリのことが取り上げられているが、生物はそれだけではなく、目にみえない微生物とかも含めると、それはほんの一握りでしかない。

 

イヌワシがいなくなることで、私たちの生活がすぐにどうにかなるわけでもないだろうが、そういった目に見えない積み重ね一つ一つの崩壊の積み重ねはやがて、我々人間の生きる道を閉ざしていくのか…

 

と思うと、なんとも複雑な気持ちになった。

 

人間は、極寒地帯から、灼熱の砂漠地帯のようなところまで、かなりの広範囲で生活していて、食料や住まいの確保など、さまざまな工夫をして生きている。

 

だから、環境の変化があってもそれに対応できるだけのたくましさが人間にあることがかえって、環境が脆弱になって自分たちが危機に近づいていることにも気づかないのかもしれない。

 

こうやって、心配するほど、世の中はそんなに厳しくもないのかもしれないがそれは分からない…。

 

まったく話は変わるが、先日、ある大規模な米生産農家と話すことがあって、自分の周りから米が消えている…という話だった。

 

それは、気候変動の影響というよりも、そのほかの社会的要因のほうが大きい。

 

廻りで耕作を辞める人が増えてきて、収量が減ってきていること、一方でインバウンドなどで外国人が多く流入して、自分たちとは予期しないところで米が消費されていること…

 

などと説明をされていたが、いずれにしても、米がない…なんてことをこれまで想像などしたことはなかった。

 

廻りの異常なシグナルに敏感に目と耳を傾け、安心して暮らせるようにしていかないといけないと思う。

 

 

昨日、とある高校で、2年生、3年生を対象とした仕事説明会があった。

参加した企業は6社で、そのうち、うちの会社を含めた4社が建設会社で、うち以外は、但馬大手の企業だった。

 

6グループに分かれた生徒たちが、15分づつに区切られた時間の中で、説明をしていくというスタイルである。

 

高校の就職は、7月1日からが実質的な解禁日であるので、具体的就業条件等を説明することはできず、あくまで『仕事』を学ぶという機会の提供であることを主催者から強く言われていた

 

今回の参加企業は建設会社が4社もいるので、彼らを意識しないわけにはいかない。

 

ティーンエイジャーの彼らが、仕事というものに対して、何を感じているのか、そんなことを想像し、プレゼンを行わなくてはならない。

 

目の前にいる高校生たち一人ひとりも、十人十色の生きざま、考え方があり、すべての人にフィットするようなことなどどだい無理な話だ。

 

事業の規模は、同じ建設会社の中でも、もっとも小さく、規模を誇るわけにもいかないし、施工の実績だって、我々よりはるかに多彩だ。

 

そう考えると、アドバンテージはほとんどないようなものだが、唯一いえるのは、仕事をおもしろいと感じるマインドは、企業の規模にも関係がないし、どんな施工物件に出会ったかというのも関係ない。

 

自らがかかわった仕事がおもしろいと感じれば、それが清掃の作業だろうが、高度な計画を立案する場面だろうが関係がない。

 

人それぞれも楽しさの定義は千差万別だが、楽しいという気持ちを創出するのは、自分にとってより困難な課題に向かってチャレンジし、それを乗り越えたときであることは、ある意味共通したものではないのかな…

 

とそんなふうに思う。

彼らに自分なりの仕事の楽しさを伝えることに徹したつもりだ。

 

賃金は高い方がいいし、休みも多い方がいい。

昨今の仕事に対する考え方は、就業の条件ばかりにフォーカスされすぎているような気がする。

 

その得た所得、得た休みをどんなことに使い、人生を豊かにしていくのか…

所得や休みが増えることで、選択の幅が広がるのは間違いないが、そこは一人ひとりがどう創意工夫して生きていくのかという人生に対する考えによる。

 

生きることに対する熱量だけは伝えることができたのかな…。

 

人生に対してピュアな人を前にして、自分自身の人生の在り方を問われているような気がした。



最近、私個人だったり、会社でいくつかの不動産を買ったからなのか…

 

建物を手放したい…

ついては、ニシムラさん買っていただけないだろうか…

 

という相談をいくつかいただいている。

 

ここで詳細を明かすことはできないが、かなり破格の値段だったりする。

 

世の中には、不動産をいわゆる金融商品の一つとして、安くで仕入れ、いかに高く売るか…ということを生業としている人も多いが、私自身は、あくまで不動産は生活のための手段であって、それをむやみやたらに買ったり売ったりということにはまったく興味がない。

 

私が住む地域は田舎だからということもあるが、安くで仕入れたとて、それを高く売るほど需要があるようにも思えない。

 

私が不動産を購入するときに考えていることは、その不動産が地域にとって、そこで暮らす人々の生活に潤いをもたらすものであるかどうか…、もし、そこまでには至らなくとも、地域に悪影響が限りなく及ばないようにしなくてはいけない…ということである。

 

昨今、円安の進行で、海外から日本の不動産を購入する案件がかなり増えていると聞く。

 

その最たるものが、インバウンドが地域経済に好影響をもたらしたといわれるニセコの例だ。

 

地域に人が流れ、経済がまわっていくことはいいことだ。

だが、先日のニュースでは、ホテルやコンドミニアムが増え、それに伴って人も多く移住してきているが、リゾートであるがゆえ、ホテルでの高給な仕事の多くは外国人が占めていて、もともといた地元の人も働く場所は増えたものの、言葉の問題が、たちはだかり、裏方の時給の安い仕事しか得ることができないという。

それでも地元の一般的な時給よりもはるかに高い時給で働くことはできるため、もともとあった地域の介護事業所などの人材が、インバウンドリゾートの方に取られて事業所がなりたたなくなり、閉鎖してしまったところもあるという。

 

これが果たして成功と言っていいのかどうか…

 

日本の田舎は閉鎖的だと批判を受ける。しかし、地域には、住民どおしが協力しあいながら、生活をしてきた歴史があり、それはいい意味でも悪い意味でも、ある一定の秩序を作り出している。

 

イノベーションは大切だが、それによって地域が崩壊することがあってはそれは本当のイノベーションとは言えないだろう。

 

個人の不動産は、個人の資産であり、誰が売っても買ってもいいとはいうものの、地域の一定の秩序は保ってこそなのだと思う。

 

人は誰もが平等であり、どの親から生まれようが、どこで生まれようが、本来は平等であるべきである。

 

しかし、生まれながらにして、格差があるとする現実はあるだろう…。

 

ただ、私は、人には天命というものがあり、どういう運命で生まれてきても、それを受け入れていくべきものだという思いもある。

 

一般的には都会は恵まれた場所で、田舎は恵まれていない場所という認識がある。

 

しかし、ひとによっては、一般的に言われる何もないというところが、人間らしさを取り戻したりするのには最適であるかもしれないし、そもそも何もないというのは、いわゆる物質経済的なものが一般的にないといわれるのであって、田畑、山林、山川海それらはあるのだ。

 

私は生まれてきた場所は、たとえ不利な条件のようにみえても、見方を変えることで天国のような場所に思えたりすることがあると思っている。

 

地域がもつ特性を最大限に活かしきることができた場所は、最高の場所だ。

 

だから、そこにある空き家のようなものもそれは最高の資産になると私は信じている。

 

それが地域に生きるものの天命だと思う。

 

遠くをはかる者は富み

近くをはかる者は貧す

それ遠くをはかる者は百年のために杉苗を植う
まして春まきて秋実る物においてをや
ゆえに富有なり

近くをはかる者は春植えて秋実る物をも尚遠しとして植えず
唯眼前の利に迷うてまかずして取り
植えずして刈り取る事のみ目につく
故に貧窮す

 

 

by 二宮尊徳

 

 

今日、当社は新しい決算年度がスタートした。

 

今一度、二宮翁の偉大なる言葉に耳を傾ける。

 

世の中は目まぐるしく変わり、予測ができないことだらけだ。

そんな世の中だけれど、人がより豊かなに安心して暮らせる社会を目指すという一点においては、どんな時代がきても揺らぐことはない。

 

 

気候変動

戦争

少子化

不安をもたらすものには枚挙にいとまがないが、その不安定さは、二宮尊徳の言う、近くをはかるものばかりだからだと思わずにはいられない。

 

目の前のことだけにしばられず、社会とはこうあるべきということにむけてこの1年もしっかりと取り組んでいく。