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ニシムラマサキのブログ 【株式会社 西村工務店 代表取締役】【 SASAYA・うづかの森 オーナー】

どうすれば地域を『素敵』に変えられるのか、誇るべき田舎になるのか、そんなことばかり考えています。

10年以上前の話になる。

 

ハチ高原に『ウスイロヒョウモンモドキ』という絶滅にひんしている蝶が生息している。ある年、その保全活動をしている方の話を聞いて、ぜひその保全活動に一役買えないだろうかと…ハチ北の一部にその蝶が餌としているオミナエシの植栽をすることになった。

 

オミナエシは、盆花として一般的なのだが、ウスイロヒョウモンモドキは、園芸用に改良されたオミナエシは食さないとのことだったので、ハチ高原周辺に咲いているオミナエシから種を採取し、鳥取の園芸農家に依頼し、苗を相当数育ててもらった。

 

いわゆる園芸用ポットに、種をまき、それを5㎝ほどの大きさにしてもらったものを届けてもらった。確かポットは3000株ぐらいあったと思う。

 

地元住民のみなさんに手伝ってもらい、その苗をハチ北のゲレンデの一角に植えた。

 

しかし、手入れが行き届かなく、またちょうど野生の鹿がこの地域でもたくさん出没するような時期と重なり、その苗はすべて食べつくされてしまった。

 

苗を育てる費用や、植栽をしてもらった人の人件費(ボランティアでやってもらったので、実質的な費用は発生してはいないのだが…)などを加算すると、100万円以上にはなっていたと思う。

 

結局その事業は途中で頓挫してしまった。

私自身のとても苦い経験の一つである。

 

すすめていく手順などにも問題があったと思う。しかし私がそのときに一番問題だと思ったのは、果たして、その事業をしてどれだけのリターンを地域に及ぼすことができるのか、あるいはできたのかということが、全く見えなかったことだ。

 

私の当初の目論見では、やがて花が咲き乱れるようになり、それに呼応するように多くの観光客が訪れる地域になるはずだった。

しかし、そういった被害を受けてもなお、花が確実に咲き続けるよう、毎年毎年資金や人手を投入するだけの地元民のモチベーションを鼓舞することができなかったのだ。

 

棚田の保全などの問題も結局そこに尽きるのだろうと思う。

耕作放棄地がどんどんと広がっていく地方。

 

なぜ、耕作放棄地が広がるのかというのは理由は簡単だ。一般的には、後継者不足だということになるが、なぜそうなのかといえばそれでは実利が乏しいからだ。

 

もし、棚田を維持し続けることに経済的な価値があるなら、こんな問題は起きないはずだ。

そこに経済的な価値がうまれなければ、どんなにそれを守ったら、景観がよくなると言っても、続くことはない。

 

石川県に、白米千枚田という有名な棚田の場所がある。海に面した丘のようなところに、千枚は大げさだけど、小さな田んぼが幾重にも重なる場所だ。私も一度だけ行ったことがあるのだが、一番小さな田んぼで5㎡ぐらいの大きさの田んぼもあったように記憶している。

 

なぜあの白米千枚田が維持できているのか…それは、あれが、観光資源として実利を生んでいるからだ。

あの場所で収穫できる米など、たかが知れている。だから米を収穫するというそれだけのためなら、あまりに非効率すぎる。

 

しかし、あの棚田を維持することで、それを見たいがための人の往来があって、飲食や、お土産といった観光的な消費がそこに存在するから、ずっと続けられるのだ。

 

もし、そこに経済的価値が伴わなければ、維持されることはないだろうと思う。

 

経済的な価値について、それがすぐにお金に変わる即効性があるものなのか、5年とか10年とか時を経ないと、結果としてリターンされないものなのか、という時間的な軸の長さというものがあるからすぐに実になるものばかりではないだろう。いずれにしても、経済的な価値があるというのは、どれだけきれいごとを言っても必ず必要となるものだ。

 

とにかく、そこに利があり、そのことが理解されているからこそなのだと思う。

 

どういう利をもたらすことができるのか…。

日々頭を悩ます

 

 

 

 

人口減少社会という言葉

 

何度も耳にしてきた言葉だ。

 

大きな災害、疾病、人類史の中で、人口を減らす局面というのは、過去にも何度もあったことだろう。

 

しかし、長い時間軸の中で、人口減少局面を向かえたのは有史以来はじめてのことであろう。

 

そう考えると、今、おとずれている局面というのは、まったくもって過去に前例がないということでもある。

 

ということは、過去の教訓とはまったく異なる考えや発想が必要になるということだ。

 

人間が社会生活を営む上で、必要とし、そして発展してきた民主主義。現在の主流は議会制民主主義という形である。

 

議会制民主主義は、多くの人の意見を効率よく束ねて総意とする方法として編み出されてきた。1億人の意思を束ねるに、住民投票という手もあるが、それではあまりに時間とり労力がかかりすぎる。

 

だが、民主主義の原点は、やはり直接民主主義である。直接民主主義で有名なのはスイスだ。

スイスは、現在でも多くのことを一人一人が投票をして決めるという。

 

参加率はともかくとして、一人一人が参加して決められたことであれば、住民も納得をせざるを得ないだろう。

現在はさまざまなテクノロジーが生み出され、民主主義の原点である直接民主主義を可能とした。

 

スマホ片手に、ボチッと押せる仕組みが技術的には可能な状況であるから、理論上は可能なはずである。

 

人口減少で苦しんでいる…と言われる地方。

我が町も例外ではないが、こと民主主義という観点からいえば、うまくこういった技術を使えば、住民一人一人が参画できる民主主義は都市がやるよりも何倍も速くできるはずだ。

 

要はその気があるかどうか。

 

中国などの共産圏の台頭著しい昨今。よくも悪くも、一党独裁の国家は意思決定の速さが、民主主義の合議により時間がかかるものを一機に覆し、ひょっとすると、世界の中心に居座っていくのではないかという驚異すら感じる。

 

しかし、過去に多くの犠牲を払いつつ、獲得した民主主義は、やはり人々が幸せをつかむためにもっとも大事な枠組みなはずで、それは不変だ。

 

だが、民主主義もそろそろアップデートし、進化していかねばならない。

地方こそが、その先端に走っていくべきだと思う。

もちろん、我が自治体も…

民主主義をアップデートしよう!

先日、神戸新聞に畜産関係者が熱田を訪ねる記事が出ていたので、思わずツイートした。

 

 

現在、和牛の聖地、熱田に行くには、国道482号を小代から、鳥取方面に向けていくルートが一般的である。

 

 

この地図にあるように、赤線が、国道482号である。小代には、国道9号線の村岡区長板から、南下していくことになる。熱田の手前の集落が秋岡。ここから、約5キロの道のりだ。

 

地形図からもある程度想像できると思うが、秋岡から熱田まで行くには、小代渓谷と呼ばれる両側が川からせせりたつ谷間を縫って熱田に行かなくてはならない。

 

このきわめて急峻な谷間によくぞ国道をつくったものだと感心するが、今日述べたいのはこれが本題ではない。

 

実はこのルート。昔からあったものではない。

いつからできたのかということは調べ切れていないが、そうでない証拠が下記の地図である。

 

これは、『但馬国全図』とされる地図の一部である。方角は、真逆になっていて、北側が下側、南側が上側である。

 

どういうきっかけだったのかはあまり覚えてないが、但馬の登山道は、だいたいが、人が生活道路として、利用していた古道であって、それを古地図から探ってみようと思って、検索していたのがきっかけだったと思う。

 

いろいろと検索しているうちに、国立国会図書館デジタルコレクションというサイトにたどりついて見つけたのが、この地図だ。

但馬国全図(国立国会図書館デジタルコレクション)

 

この地図は、安政年間(1855年~1860年)につくられたようだ。

(地図上に安政の文字が見えるので、そうなのだと推察するが、書かれている文字が、達筆すぎて、私には、記載している文字がよく理解できない(泣))

 

ちなみにペリー襲来があったのが、1853年であるから、幕末のころだ。

 

この地図には、集落と、それをつなぐ道が記載してある。

私が住んでいるのは、大笹(ハチ北)だが、それと新屋をつないているルートも描かれているし、熱田から、養父市大久保や別宮への道も記されていて、今は舗装された県道や町道になっているところもあるが、山際のルートは、現在登山ルートとして使われている。一部は藪になって道が消えかかっているところもあるが、私が変態活動と称して、これらトレイルを走破しているところも、実はこれらの古道だ。

 

この但馬国全図に書かれているルートで、小代越⇒ソナエ⇒アツサへと通じる道は、まさに私が初めて熱田を訪れたルートそのものだ。

 

 

しかし、もう一度、但馬国全図をみてほしいのだが、アツサ(熱田)への道は、ソナエ(備)からのルートしか描かれていないことに気づいただろうか?

 

つまり、現在私たちが使っている国道482号は、昔にはなかったものなのだ。

 

冒頭『熱田を本当に理解したいなら、とちのき村がある備(そなえ)から四十曲がりを通って熱田に行くのが一番だと思う。』とツイートしたことを紹介した。

 

さきほど、秋岡から、熱田までは約5キロの道のりといったが、それは、昭和に入ってからできたルートであって、昔は、そのルートは存在せず、熱田に行くには、秋岡⇒新屋⇒備⇒熱田というルートを通るしかなく、さらに倍の10キロほどの道のりしかなかったということなのだ。

もちろん、古道は、今のように舗装された平坦な道ではない。備から熱田に行く道中に、四十曲がりと呼ばれる場所があるが、つづら折りになっているその場所は、きわめて急峻な道でもある。熱田に行くのがそのルートだったことを知れば、但馬牛の歴史上、危機を迎えた外国産牛導入による荒廃をまぬがれた理由に、心から納得できることだろう。

日々の生活で、大事だなと思うことの一つに、いかに心を一定に保つかということがある。

 

人間はさまざまな感情が渦巻く。

 

喜怒哀楽という言葉があるように、いろんな方向に心は動く。

 

別に押し殺す必要はないのだけれど、その起伏のブレが大きくなりすぎないようにする必要はあるのだろうと思う。

 

例えば、朝から家族でケンカをして、家を出て会社についたとする。

しかし、会社に着くころには、その朝は何もなかったようにふるまう必要があるだろう。

 

うれしいことがあったら、それは喜びとして表現すればいいと思うけど、過度に盛り上がりすぎて、周りを見失ったりするようなことはないようにしなくてはならない。

 

70%ぐらいなテンションをずっと続けているのが一番いい状況なのかもしれない。

 

いつも明るくふるまい、周りも明るくしていく。

自分が落ち込んでもそれをしっかりとコントロールして表には出さない。

 

人間だから、やりきるのは難しい。

でもやっていかねばならない。

心をしっかりとキープし、今日も笑顔でいこう!(←という自分に言い聞かせる(笑))

最近、心の中の思考に、隙間ができると、かなりの割合で頭をよぎることがある。

 

それは、このまま、世の中は、都市集中型未来へ突き進んでいくのか…ということである。

 

まもなく、1ヶ月が過ぎ去ろうとしているが、みなさんに呼びかけをして、兎塚小学校創立50周年記念式典を行った。

 

もちろんこれは、たまたま母校が、50周年という節目を迎えたから行った行事ではあるのだが、その根底には、都市集中型未来に対するアンチテーゼがある。

 

日本という国が明治以降突き進めてきたのは、中央集権的な国家の形成である。

長男は跡継ぎとして必要であろうから家を守れ、第2子以降は、都会に出て国の産業の隆盛のために働け、

極論するとそんな感じの国家形成の在り方だ。


もちろん、現在の日本が今の地位を築いてきたのには、有効な手段であったのだろうと思う。


しかし、これからの社会のありようとして、今後も同様にそうであるのは甚だ疑問でもある。

 

今も、スマートシティの議論は活発だ。

東京一局集中の是正…とは言っているものの、あまりに巨大になりすぎた東京はちょっと行きすぎじゃない?

…せめて、中堅中核の都市はいくつかは存在させておいて、そこに生活機能は集約させよう…

と言っていることは、やはり都市集中型の未来をつくることに他ならないような気がする。

 

つまりはどこまで言っても、農山漁村地域は、生活上非合理的であるから、整理したほうがいい(つまりはなくした方がいい)という議論に行きついてしまっているような気がするのだ。

 

田舎のどん詰まりにいる私からすると、本当にそれでいいのか…という思いがどうしても頭をもたげるのである。

 

ウィズコロナ時代に突入し、丸2年目が過ぎた。

ウイルスに対する警戒感が若干薄れ、人はある程度活発に往来をするようになった。そして、また都市の人の動きも活発になった。

COVID19をはじめとする未知なるウイルスとの遭遇。

これは、ある意味、都市化していく世の中が作り出したものだ。

自然界において、過度な一極集中は、危険が生じるのだ…ということを私たちは学んだはずなのだが、やはりのど元過ぎれば我を忘れ、再び都市集中へと向かっていっている。

 

私たちの地域は、但馬牛のふるさととして広く認識されるようになったが、なぜ但馬牛のふるさとになったのかというのも、都市集中のオルタナティブの結果であるということは改めて認識されるべきであろう。

 

明治期以降、畜産の品種改良の着手を目指した政府は、より大きく、力強い牛への転換を目指し、外国の牛をかけあわせることで、それを成し遂げようとした。

 

しかし、その思惑は大きく外れることとなった。

但馬牛は、他の牛に比べて大きくはないのだが、気性は穏やかで人なつっこく、また小さな割には粘り強く(つまりトルクがあるといういうことだ)特に但馬地域の急峻な山間地にある田畑を耕作するにはむしろその方が適していたが、その認識が足らなかったせいで、掛け合わせても、思ったどおりの効果を得られなかった。

 

時すでに遅し…、掛け合わせに失敗して、純潔の但馬牛が絶滅寸前まで追い込まれたが、小代熱田という山奥に、その掛け合わせを免れた牛がいることが判明し、もう一度それらの牛から、純潔の但馬牛をつくりだすことに成功したのだ。

 

それが、のちに、スーパー種牛『田尻号』をうみだすことになり、今の但馬牛のみならず、日本の和牛振興の礎になった。

 

話は変わる。

今世界は、ロシアの暴走を止められない状況にある。

 

それは、経済がグローバル化しすぎたがゆえに、人が生きる、水、食料、燃料を他国に依存するような社会になってきたことによるものだ。

 

暴走するロシアを封じ込めたいが、エネルギー自給できないヨーロッパ各国は、強硬におしすすめることができないというジレンマがある。

 

ここでも小代熱田に戻る。小代熱田は残念ながら廃村になってしまったが、なぜ純潔但馬牛が免れたのかということだ。

それは、とてつもなく山奥で隔離されたような場所だったということだ。

 

しかし、もう一つの疑問が沸き起こるだろう。

そんな山奥の暮らしで人は生きていくことができるのか…ということだ。

 

答えはこうだ。それは、山に囲まれ、人が生きるに必要な水、食料、燃料、すべてがそこでまかなうことができた。

だから、他に依存することなく、人の営みがそこでつくりあげることができたのだ。

 

だからローカルを見直し、自立ができる社会ができれば、そういった国の争いは無関係に生活がなりたっていくということなのだ。このような事実を振り返るとき、時代背景が今とまったく異なるとしても、都市から隔絶されたオルタナティブの結果であることは自明の理だ。

 

つまり、世の中は、都市化にむかっていくことは是として進んできているが、その判断は必ずしも正しくないということだ。

 

さて、日本の未来はどうなのか…先にのべたように、以前として日本は都市集中な社会へ向かっている。

都市化に向かえば向かうほど、実は脆弱な社会になっていってはしないかという疑念をどうしてもぬぐいさることはできない。

 

これまでの概念の延長では、次の新しい時代を作っていけない気がする。

 

残念ながら、私自身が出せる答えは、ここまでだ。

都市集中型のオルタナティブをつくり、モデルとして示すことができないから、説得力がないのだ。

 

思いだけでは、人を説得することができない。自分自身が範を示し、活き活きとしている姿を多くの方に広げていかなくてはいけない。