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ニシムラマサキのブログ 【株式会社 西村工務店 代表取締役】【 SASAYA・うづかの森 オーナー】

どうすれば地域を『素敵』に変えられるのか、誇るべき田舎になるのか、そんなことばかり考えています。

8月23日

AM3時

 

家を出る。

 

空路は、成田からのエディハド航空というアラブ首長国連邦のキャリアを使うことにした。

 

理由は2つ。一つは、値段が安かったこと。二つ目は、ウクライナ情勢だ。

現在は、いわゆる日本をはじめとする反ロシア側の航空キャリアはロシア上空を飛ぶことはできないようだが、とにかく何かがおきてもいけなし、ロシアを回避するルートにすることを考えた。

 

正直、エディハド空港などというキャリアがあることも知らなかったで、中東系のキャリアに乗ることに少し不安を感じながらの出発だった。

 

 

AM5時30分 関空到着。

成田への便はピーチアビエーション。

 

余談だが、実は、次男が夏休みにアメリカに行くことになっていて、それも成田発だった。

最初、成田空港までの送迎を私がすることにしていたのだが、先に述べたコロナ感染で断念。

 

結果、妻が関空まで送り、息子はそこから関空→成田→アメリカと自分で乗り継いで、現地まで行ってくれた。

初めての海外への一人旅だったが、チェックインなども無事に一人でこなしてくれた。かわいい子には旅させろというが、そうやて一つ一つ経験を重ねて成長してくれたのだとしたら、怪我の功名といえるのかもしれない…。

 

さて、話をもとに戻す。

成田についてから、出発までの間にけっこう時間ができたので、少しだけ、成田市を散策する。

JRを乗り継ぎ市内まで行くことにした。

成田駅でのショット。駅構内にあった提灯。成田山の関係か?

 

ジップロックの袋と、テーピングテープを購入しようと成田空港のお店を回るが、意外とおいていなかった。

成田市のスーパーと薬局に行って必要物品を購入。

 

トレイルランニングをやっている人であれば、割とおなじみなのだが、レースに出場するためには、装備品を携行しておく必要がある。雨具、ボトル、ヘッドランプなど、レースごとに決められていて、今回は、テーピングテープも含まれていたが(怪我をしたときや、携行品が破れてしまった場合などに、固定することができるので、大きなレースだと指定品になる場合がある)出発直前まで見落としていて、あわてて買いに走ったのだ。(空港のドラッグストアでももちろんテーピングはいくらかはおいてあるのだが、レースでの携行品は幅が決められていて、そのサイズが空港にはなかった…)

 

成田空港以外の成田市の雰囲気を感じることができてそれはそれで一つの経験になった。

 

14時30分チェックイン

 
 
 
 
まだ、この時期は、日本への入国制限がずっと続いていたこともあって、成田空港は驚くほど、静かだった。
 
去年、長男がアメリカに留学することになり、最後の見送りだと思って、成田にいっしょについていった。
その時は、もっと日本全体がコロナへの厳しい制限がつづいていたが、少し緩和に向かっている方向だったが、空港内は相変わらずだった。
 
空港内の売店も多くのところはいまだ閉店のところも多かったので、空港内にいてもひたすら時間を過ぎるのを待つしかなかった。
 
17時フライト
搭乗するエディハドの機体
 
 
 
23時15分(現地時間)
アブダビ到着。
 
エディハド利用は、
成田→アブダビ(アラブ首長国連邦)→チューリヒ→ジュネーブ
とピーチからのトランジットもあわせると4回しなくてはならなく、それはそれでしんどいのだが、違う空港に降り立ってみれるという経験もあまりないので、そこは前向きに楽しむことにしている。
中東に降り立っているという実感は、ボーディングブリッジの外から入ってくる熱気で分かった。
とにかくクソ暑そうだ(エアコンの中なので、通路自体は涼しいのだが…)
 
 
 
アブダビ空港内。
トランジットで待つ人たち。
 
所かまわず寝ている。私もそれにしたがったが…。
 
 
空港のロビーのテレビではドラゴンボールをやっていた。日本のアニメはどこの国にいっても人気のようだ。
 
ヒジャブ(中東の女性の人が身につけている頭を覆っている布)を着用した人がやたら多く、またニカーブ(目しか見えない真っ黒い衣装)の人の姿もあり、やはりここは中東の国なのだなということを実感する。
 
次のトランジットまでかなりの待ち時間があったのだが、もうひたすらに待ち続けるしかなかった。
 
24日
AM3:15 チューリッヒ発
 
続く
 

いよいよ8月に入り、ヨーロッパ行きまで1ヶ月を切ることになったが、また一つ問題が浮上してきた。

 

それは、日本への入国をするすべての人は、72時間以内のPCR検査を受けるということだった。

 

病院からは、コロナウイルスに感染すれば抗体ができるのだが、感染後3か月ぐらいは、PCRを受けると、死滅したであろうコロナウイルスの死骸みたいなものがPCR検査に反応するかもしれないというのだ。

 

もし、その検査で陽性反応が出てしまったら、現地でさらに10日以上滞在し、帰国できないということだったので、レースのためにヨーロッパに行くのに、1週間休み、さらにそこから10日間も会社を休むわけにはさすがに行かない。

 

いろいろ考えた末、出発前に、日本でPCR検査を受けて、陽性反応が出れば、ヨーロッパに行くことはあきらめよう…そうすることにした。

 

また、行くにしても、現地でPCR検査を受検できるようにしなければならない。

インターネットと格闘し、現地滞在のスケジュールも確認しながら、現地で受診できるところを探すこともはじめた。

 

飛行機や、宿の手配は、すでに終えていたが、さすがに、72時間以内のPCR検査を受診することまではスケジュールに組み込んでいなかった。

 

CCCへのレーススケジュールは、かなりタイトに組んでいて、レース終了後にただちに日本へ帰国するスケジュールを組んでいたので、飛行機が飛ぶ直前にPCRを受けることができなかったので、レース出発前日に、滞在先のシャモニーで受診できる医療機関をさがすことになった。

 

フランスでは簡易PCRみたいなものは、薬局でも受けられるようだが、日本政府が要求しているエビデンスは、専門の医療機関のものだったので、フランスの厚生労働省みたいなところのHPから、なんとか現地の医療機関をみつけることができ、そこに予約を入れることができた。

 

これで、やっとのことで、事前準備を整えることができたのは、お盆前のことだった。

 

お盆開けの8月18日、地元の医療機関でPCR検査を受けた。

陰性…

 

予定どおり行く。

CCCに出場することに決めた。

4月に、日本最大級のトレイルランニングレース、UTMF(ウルトラトレイルマウントフジ)の出場を果たし、6月には、奥信濃100に出て、CCCまでに、いくつかのレースを経験することで、経験値を積み上げておく計画をたてながら進んでいたが、7月に入り、大幅な狂いを生じることになった。

 

7月に入り、新型コロナウイルスに感染してしまったのだ。

7月の10日に、地元で開催される60キロのトレイルに出場しようとする朝、どうも体調がおかしい。

 

その前の晩から、なんとなく寝つきが悪く夜中に何度か目が覚めてしまう。

緊張から来るものなのかとも思ったが、朝になってどんどんと体の悪化を感じた。

 

体温計ではかる。38度5分ぐらいはあったと思う。

 

少々体温が高いことはときどきあるが、さすがに38度越えは、自分にとっては正常範囲を超えている。

もしや…

 

レースに出ることを諦め、おとなしく家で寝ることにしたが、これだけの高温…

まさかとは思いつつ、仕事ででかけてしまった妻に変わり、近所で暮らす母に、薬局で、抗体検査キットを買ってきてもらうことにした。

 

さっそく試す。

 

陽性…

 

何事もないことを祈っていたが、陽性反応が出てしまった以上、国の方針にしたがって、行動するしかあるまい。

 

保健所に連絡をとり、その指示に従い、病院での正式なコロナウイルスの検査を予約し、検査を再度行った。

 

やはり陽性。

10日間の隔離生活がはじまった。

 

幸い、我が家は2階にもトイレがあり、私はトイレと部屋の3メートルだけを行き来する生活になった。家族からは風呂に入ることも許されず、ひたすら部屋にこもりきりになった。

 

熱は翌日には下がった。

3度目のワクチンを3月に摂取していたのが、幸いしたのかもしれない。

 

いわゆる第7派の最初の方の感染者ということになるのだろう。

現在(2022年11月)国が要請する隔離期間は短くなったが、まだこのころは、当初通りの10日間であり、また世間のコロナウイルス感染者への見方は相当にきつい時期で、もうひたすら家にこもりきりになるしかなかった。

 

病に侵されて、体の不調を感じる以上に、部屋で閉じこもった生活をするという生活の方がしんどかった。

 

家にいる間は、社員の協力もあって、リモートである程度の仕事をこなすことができたが、なにぶん病人の身であるし、熱は下がったとはいってもやはりしばらくは体がだるい感じもあって、その間は、体を動かすことできなかった。

 

たかが10日間なのだが、やはりその影響は大きく、かなり体力を落としてしまった。

 

ヨーロッパへの出発1ヶ月前、大きく落としてしまった体力。

 

CCCに向けて、とにかくできるところまで体力を回復させるしかなかった。

別に秘密にする必要もなかったが、あまり多くの人には打ち明けることなく、8月の終わりにヨーロッパに行ってきた。

 

UTMB(ultra trail du mont blanc)の姉妹レース、CCCに出場したからだ。

 

現在、トレイルランニングの世界で最高峰の大会といえばUTMBであることに間違いはないだろう。

トレイルの世界に片足を突っ込んでしまって10年…。

 

どんどんとはまり込んでしまって、いつかこの大会に出てみたい…そんな欲望がふつふつと湧いてきてしまった。

 

UTMBは、ヨーロッパの最高峰、モンブラン山系をぐるっと一周するレースで、走破距離は171キロ。

この大会に出るためには、ある程度の実績を積んでおかなくてはならない。

 

ITRA(international trailrunning assosiation)という組織があって、現在国内海外問わず、多くのレースがこのITRAの組織の認定を受けている大会になっていることが多い。

 

日本でも多くのトレイルの大会が開かれているが、距離、累積標高などによって、それぞれのレースに1点から、6点のポイントがつけられている。

 

UTMBに出るには、このITRA認定の大会2レースで完走した実績の合計点数が10ポイント以上を獲得していなくてはならない。

これまでの実績では、2レース10ポイント満たせなかった私は、その姉妹レースであるCCCならば、参加資格を満たしていたため、それにエントリーをした。

 

CCCというのは、三つの地名の頭文字をとっていて、スタート地点であるイタリアのクールマイユール(courmayeur)、エイドの一つにもなっているスイスのシャンペラック(champex-lac)、そしてゴール地点のフランスのシャモニー(chamonix)と、レース中に二つも国境をまたぐ。UTMBの後半部分にあたるコースとなっている。クールマイユールとシャモニーはまさにモンブランの表と裏に位置する。

 

エントリー期間は半年前の1月だった。

UTMBのサイトを開き、あまり理解できていない英語と格闘しながら、なんとかエントリーを済ませた。

 

ただ、これらUTMBシリーズの大会は、トレイルランニングの最高峰であるが故に、世界中からのエントリーが殺到するので、抽選となっており、それに当選しないといけないのだ。

 

2月初旬…

UTMBからメールで連絡が当選の結果が届く。

 

参加しようと思って、エントリーしたものの、実際に当選のメールが来て、うれしさもあったが、ほんまに行けるんだろうか…

そんな思いもよぎったりした。世界中がコロナの渦中にあって、海外への往来もままならない状況だったからだ。

 

しかし、せっかく手に入れたチャンス…とりあえずは前に進めることにした。

 

今回CCCに出るにあたり、自分ではもう一つたわいもない目標を掲げていた。

それは、現地ツアーなどに委ねるのではなく、すべて個人手配でするということだった。

 

私は、大学を卒業後、3カ月カナダで過ごした経験がある。

バックパッカーという旅のスタイルにあこがれて実際にそのようにしてみた。

 

たいした英語力はなかったけれど、とにかく、そうやって一つ一つの行動を自分で決めて旅をすることが楽しかった。

 

あれから20年以上がたち、日常ではほとんど使わない英語力はどんどんと落ちていったが、ヨーロッパに行くにあたり、それを貫徹してみようと思ったのだ。

 

実際にチケットなどの準備をはじめたのは、6月に入ってからだった。

先にも述べたように、コロナの状況がどうなるか見通しもつかなかったが、6月頃になってくると、ヨーロッパの方では、日常の生活を取り戻している感があり、いよいよUTMBも本当に実施する気配を感じてきたからだった。

 

 

現地までの飛行機、宿、また空港から現地への移動なども含め、夜な夜なインターネットに向いながら、チケットの手配や旅行計画を立てていった。

 

続く…



今、村岡山岳救助隊の管外訓練に参加している。

私が住むハチ北周辺は、鉢伏山をはじめとする1000m峰が4つあり、数年に一度ではあるが、遭難事案が発生する。

消防や警察といった公的機関ももちろん捜索や救助活動を行うが、それとは別に、地域の有氏で救助隊を組織する、いわば山のスペシャリストといったところだ。

 

私も、20代に入隊し、以来ずっとその活動に参画してきた。

2年に一度開催される管外研修は、1泊2日で、地域外に出かけ歩行訓練という名の登山を行い、隊の親睦もかねて、実施している。

今回は、奈良の山上ヶ岳という1719m峰に登ってきた。




 

山上ヶ岳は、女人禁制の霊山となっており、山頂には、大峯山寺というお寺があった。


今ならば、お金さえかければ、ヘリコプターなどで資材運搬ができる時代だから、資金があればなんとかなるのだろうが、当時はそんなものもなく、ただそこに行くには、登山ルートしかないので、このお寺を建立するために、いにしえの人々は資材を担ぎ上げて作ったのだと思うと、驚愕するしかない。


そうやってしばし、仕事を離れて、活動に没頭することで、頭がクリアな状況になっていくのが、なんとも心地良さを感じるのだ。

この大峯山寺にいたる登山ルートの一部は、奈良吉野から熊野大社へ向かう、いわゆる熊野古道の修験道の道でもある。

日本の登山ルートは、古来より山岳信仰や、修行の場を起源とするものが多い。

 

いにしえの人々もひたすらにそういった道を行き来しながら、人生や世の平和に思いを馳せつつ、何かをずっと探求したのであろう…。

 

そう考えると、やはり自分にとっても、山に向かうことは、人生を考えるための大事な時間なのだなあとつくづく思うのである。