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ニシムラマサキのブログ 【株式会社 西村工務店 代表取締役】【 SASAYA・うづかの森 オーナー】

どうすれば地域を『素敵』に変えられるのか、誇るべき田舎になるのか、そんなことばかり考えています。

今朝のニュースで、山口県上関町の町長が、核の中間貯蔵施設の調査を行う意向を示したとという記事を見た。

 

核の現在稼働している貯蔵施設は8割埋まっていて、あと5~7年でいっぱいになるとのこと。

 

調査の受入が決まると、国から交付金が町に対して出るらしい。

 

 

山口県上関町は山口県の離島で2500人ほどの人口を有する町のようだ。

町長がそのような意向を示したのは、過疎化していく町に対する危機感なのだろう。

 

そんな記事を見つつ、さて、もしうちの町で、受入るという覚悟がもてるのだろうか…とふと思った。

 

私は、到底受入ができないと表明するだろう。

おそらく、多くの自治体もそのように言うだろう。なぜなら、それを受け入れると表明できていれば、今頃、こんな議論が沸き上がるはずもないからだ。

 

しかし、現実に原子力発電で、私たちの多くの生活が成り立っていて、それらの問題は決して他人ごとではなく、私たち日本人一人一人が考えなくてはいけない問題である。

 

原子力発電を続けて、私たちの未来を創ることは、もう限界にきている…のではないか。

脱炭素に向けて、世界のエネルギーシフトが起きている

 

未来をつくっていくのはそこにしかないのではないか…と

足りない知恵を振り絞るとそうおもってしまうのだが…

 

自分たちのマチに核施設を受け入れができないと表明するのなら、核を使わなくても生きていく術を考えていかねばならない…と思ってしまうのだが…

 

ただ、核燃料を使用しないで、化石燃料を使わないで、再生可能エネルギーだけで生きていけば、国際競争力も保てず、日本は海外に破れてしまう…という声に、私には勝てるだけの知恵がない。

 

でも、やはり私のまちに、核施設などおいてほしくないし、それによって、得られる果実(交付金)があっても、そんなの決して魅力的でもなんでもない。

 

だから、やはり、核の行く末を案じなくても生きられる未来をつくるよう努力するしかないのではないか…。



私の会社のかなりの割合を占めているのが、公共事業である。

 

一定規模の需要が、国、地方公共団体から発注されるという点で、非常にありがたい存在である。

 

 

もちろん、その仕事を完遂させるには、技術力や規模などのリソースが必要であるし、昨今、総合評価制度に見られるように、技術力がより高いところが有利になる仕組みを用いて、そういった面での差別化をはかろうとしているが、基本的にコモディティ化された業界である。

 

基本的な仕様が固められているので、どの業者がつくっても一定水準をみたしたものがつくられる。

 

そして、今の公共工事の入札制度では、金額の大小がすべてで、もっといえば、入札の設計単価は、ルールにのっとって、作られ、最低制限価格が決められているので、誰が積算しても同じ結果となり、同じ金額の入札価格が、並べられて、最終的にはくじびきで決められる。

 

世界の建設業界がどのようになっているのかをよく知らないけれど、このような世界は、非常にがんじがらめの世界でもある。

 

日本が家電、IT、その他もろもろのものが、今や競争力が奪われているということはよく言われるが、コモディティ化された世界では、価格競争により、どんどんと薄利多売の世界に移っているためにおきることだ。

 

おそらく、私がいる建設の世界というのはその最たるものだと思う。

そこの中でコモディティ化されない世界として戦っていくのは相当に難しい。

 

しかし、やはり、工夫、改善と言ったことを日々やっていき、社会にインパクトを与えられるような存在にならなければ明日はないと思う。

 

ダーウィンの進化論よろしく、変化し続けるものでなければ、世の中から抹殺されていくのだ。

それはこの業界とて同じに違いない。

 

私たちのライバルは、同じ業界の中だけにあるのではない。

 

IT業界や、流通業界すべてがライバルである。

 

非常に偏った世界に生きていてもコモディティ化されない改善が必要だ…

 

 

と自分に言い聞かせてみる。

先日、とある飲み会の席で、役場職員のMくんと同席する機会があった。

 

「マサキさん、オンライン会議ってどう思います」って聞いてきたので、持論を話をした。

 

香美町は、人口が少ない自治体にも関わらず、広域だ。

ちなみに、私が住んでいるハチ北から、香美町役場までは、36kmあり、自家用車でも40分かかる。

 

今とある会議体の役員会があった。

会議は1時間、家からの往復は1時間20分…。会議時間より、移動時間の方が長かった。

 

だから、その会議体の主催者には、ぜひ、オンラインでも参加可能なようにしてほしい…と伝えていることを、Mくんには話した。

 

また、こんな話もした。

僕のムラには、役場職員がいて、彼はその36kmの道のりを毎日通っている。

香美町は、3つの町が合併してできた町なので、旧町には、それぞれ立派な庁舎がある。

 

すべての業務では難しいだろうが、いくつかの業務は、その旧庁舎をサテライトとして、たとえば、村岡の人間は、その旧庁舎でも仕事をできるようにして、必要な打合せなどは、本庁である香住、支庁舎でもある村岡とオンラインでつなげたらどうかという話もした。

 

「やっぱりそうですよね」

おそらく、Mくんも、私が伝えたようなことはすでに頭の中には描いているようだ。

 

 

地方自治体という、住民一人ひとりの戸籍など、最も重要な個人情報を取り扱う機関としては、軽々しくネットにつなぐことができないという特殊事情はあるのだろうと思うが、今、世の中に普通に出回っているさまざまなITツールで、不便を解消することができることはたくさんあると思う。

 

そして、私が思っているようなことは、役場の職員の方々もすでに承知済みだ。

 

意思決定できる人がその気があるかどうか…なのだと思う。

 

最近、新規職員の募集がつとに目立つ。

 

私の企業を含め、地方での人手不足は深刻で、それは地方での働く場所としての雄である役場も例外ではないということなのだろう。

 

人口減少社会というのは、相当なインパクトを私たちにもたらしてきた。

そして、それは地方においては、著しい。しかし、私たちは、ここで生きていかねばならない。

地方がこれからも残っていくためには、まずは使える技術をフル活用して、効率的な運営をしていくことなのだろうと思う。

 

 

 

 

 

 

 

 

先のブログで、ウルトラトレイルデュモンブラン(UTMB)に出たいが一心であることを述べた。

 

しかし、なんで、そんなにそこへのあこがれがあるのだろうと自分の内面を掘り下げてみることにする。

 

スポーツ選手であれば、オリンピックに出たいとか、ワールドカップで活躍したいとか、そういう憧れって少なからずあると思う。

 

しかし、自分がやっているスポーツで、『世界』を意識して戦える人っていうのは、限りなく少ないと思う。

 

私の場合、それがアルペンスキーだった。

 

幼少の頃からアルペンスキーを続けている。

 

学校が終われば家に帰り、まだリフト営業が続いている時間だったので、制服を着たままゲレンデ行って、スキーをするのが最高の遊びだった。

 

世の中にこんな楽しい遊びを他には知らなかったこともあって、夢中で直滑降するのが楽しかった。

 

小学1年生だったと思う。

 

地元の町民スキー大会に出場したのが、スキー大会に出た最初だったと記憶している。

 

レースの世界を初めて体験し、早く滑るということがさらに楽しくなった。

その延長で、レースにどんどんのめり込んでいった。

 

中学1年のとき、県の中学大会がああって、3年生の先輩たちが、次々と失敗し、まぐれで県大会に優勝してしまった。

しかし、そのときには、全国中学というさらに上の大会があることを知らなかった。

 

それまで、県大会しか知らなかった私は、有頂天になって、自分は世の中でも相当速いのだという自負があった。(もちろんそれは錯覚なわけなのだが…)

 

中学3年のとき、はじめて全国中学の切符を手にし、出場した。確か40番ぐらいだっと思う。

 

 

そのときにはじめて、自分はうまいかもしれないという勘違いを、いい意味でぽっきりとへし折られた。

 

そのとき、ただ素直にもっと上を目指したいという欲望が芽生え、高校に進学しても、ひたすらに上を目指して頑張っていたと思う。

 

兵庫県というある意味スキーの業界からするとマイナーな場所だったゆえ、県では割と上位に入っていたこともあって、それが自分のモチベーションで、がんばることができたように思う。

 

高校3年のときには、(他に出る人がいなかったことも幸いし)はじめて、兵庫県代表として、国際大会に出場した。

 

当時、ラークカップというタバコメーカーが協賛のFIS国際スキー連盟の大会に県枠で出場することができたのだ。

 

日本はバブルの真っただ中にあったこともあり、ウルスレーマンとか、アニタバハターというオーストリアのスーパースターも招待を受けていて、同じコースを滑る機会を得た。

 

もちろんレーマンやバハターは、軽々とそのコースを滑って余裕でぶっちぎっていってたけど、そうやって世界の舞台を垣間見てしまった。

 

大学生になり、スキーを続けていて、日本で実施されるFIS(国際スキー連盟)主催のレースに出ることが目標となった。

実は今思えば、相当な勘違いだったけれど、大学では長野白馬地域などの同輩、先輩後輩がいたので、その友人たちは、FISレースを経験している人たちだったこともあり、もしかしたら、努力すれば、そういう世界に、少しぐらいは近づけるのじゃないかと思ったりもした。(それがけっこうな勘違いだったことは今になって思うことなんだけれど…)

 

 

そんなことを願いながらやってきた大学生だったが、結局、FISへ近づくこともなく終えた。

 

社会人となり、スキー中心の生活から仕事中心の生活になって、スキーの国内の最高峰からも遠ざかっていた。

ただスキーはその後も細々と続けていて、毎年、スキーの国体には兵庫代表として、45歳ぐらいまで出ることができた。

 

45歳を迎えたあたりで、スキー界の先輩から、

 

『今まで、選手でそれなりに来たのだから、今度は後輩の育成に時間を注げ』

 

と言われ、確かに、よわい45ではなかなかこれ以上の成績を望める可能性も少ないとその言葉を受け入れることにした。

 

トレイルランニングは、10年ぐらい前からも年に何レースかは地元の大会に出ていた。

 

ただ、なんとなく完全燃焼していない中で、トレイルランニングの世界にも世界を目指せる仕組みITRAというものがあることを知った。

 

2012年頃だったと思う。

スポーツショップが主催する展示会に、地元の観光協会で、㏚するブースを出展するために参加していたおりに、ちょうど自分たちのブースの横の方だったと思うが、ノースフェイスの展示ブースがあり、DVDでウルトラトレイルマウントフジのドキュメンタリービデオを繰り返し流していたと思う。

 

昔からエンデューランススポーツには割と興味あったので、興味深く見ていたが、そのときはただそれで終わった。

 

なんとなくトレイル大会にも出て、そしてITRAの仕組みがあることを知って、その頂点に、UTMBがあることを知った。

 

40を超えたおっさんでも、もしかしたら、その大会を目指すことができるのではないかもしれない…

 

そんなことがふと頭をよぎり、先に言ったウルトラトレイルマウントフジの映像がフラッシュバックしてきた。

 

トレイルランの世界は、割と中年でも活躍できる場面が多い。

 

長距離というある意味年齢を重ねても、体力レベルがそんなに落ちないということ

そして、トレイルという特殊な環境は、完走してゴールすることが何よりもステータスなこと

さらには、そのトレイルランニングは、経験や戦略がとても重要で、年齢はむしろ経験という部分ではプラスになること

 

そういったこともあって、今の自分でも世界を意識できる唯一のスポーツであることが分かったということである。

 

一つ一つ積み重ねて次のステップが得られるのは、過去に自分がスキーで上を目指した仕組みに類似して、その当時達成できなかった『世界を目指す』ということを体験できているのかもしれない。

 

UTMBまでは、今の自分にはまだいろいろなハードルがある。

体力レベルも年々低下する中で、そこを目指せる期間もそう多くはないだろう。

 

しかし、世界を舞台に、を疑似体験できるこの機会をなんとしても楽しみたいのだ。

 

 



エイドに到着する前に、ボランティアスタッフが何事か大声で叫んでいた。

 

応援にしては、掛け声の感じがおかしいなと思ったが、スペイン語でしゃべっているのか、何を言っているかわからなかった。

 

第2エイドに到着。

しかし、ここで状況が普通でないことに改めて気づいた。

 

第1エイドでいた人の数よりも明らかに多い数の人数がそこに滞留していることに、気づいたからだ。

 

第2エイドから、選手はそこから次に向かっていっていなかったのだ。

次から次へと来る選手。

 

第2エイドは、比較的大きなテントだったが、ほどなくして、人でぎゅうぎゅうの状況になった。

あえて他の人には聞かなかったが(というより言葉が通じないから聞けなかったというのが正直なところか…)、次に向かって出発できない状況であることは理解できた。

 

おしくらまんじゅうのようにぎゅうぎゅうになりながら、時間だけが過ぎていく。

 

しばらくすると、組織委員の人らしき人が、全員に向かって大声で何か叫んでいる。

もちろんスペイン語だったので、それもわからなかった。

 

まわりに英語ができる人を捜し求め、何事がおきたのか聞いてみた。

(スペインで開催されていることもあり、やはり非英語圏の人が多かった)

 

待機せよとのこと。

 

それから、20~30分経ったであろうか。

今度は組織委員の人が、スペイン語と英語で選手全員に向かって話した。

 

『レースはキャンセルになった』

 

自分がついたころには、すでに第2エイドの制限時間1時間前ぐらいで、刻一刻とすぎていく時間に、おそらく、これから、レース再開とはいかないだろう…とは思ったものの、レース中止の知らせに複雑な思いがうごめいた。

 

相当な時間をかけて、スペインまでやってきた。

それが、突然の中止宣言。

 

しかし、一方で、第2エイドまでで相当な疲労を感じていて、次に行けるのだろうかという不安。

それが中止ということで、その不安が取り除かれたことによる若干の安堵感。

 

第2エイドから、第3エイドは、このレース前半の最大の山場だった。

標高2500mのところに向かって、ここから一機に登り越えなくてはならない。雷を伴った嵐は、落ち着く気配はなかった。

 

加えて、日没が進み、あたりは真っ暗な状況。

 

すでにスタートから、第1エイドまでの状況を上回るさらに厳しい状況を、この疲れた体で乗り越えるのは不安しかなかったのが正直なところだった。

 

 

複雑な思いが交錯したが、身動きとれない状況の中で、ただじっとしているしかなかった。

 

数百名の選手が同じエイドの中でじっとしていた。

大会事務局が準備するゴール地点までの輸送バスを今度はひたすら待つことになった。

 

第2エイド地点とは言っても、山道を分け入ったところに設置してあるエイド。

 

大型バスが走れるような道はなく、小型のワゴン車で何度も往復して選手を輸送しているので、一度に運べる人数は限られていて、ひたすら順番が来るのを待った。

 

レインウェアは着ていたものの、撥水機能はすでに失われ、汗で濡れた体でどんどん体温が奪われてくるのはわかったが、それはどの選手も一緒だ。

 

とにかく、その場所でひたすら救護車両を待ち続けた。

 

1時間30分は、いたと思う。

 

ようやく、自分の番がまわってきて、大会事務局が用意した車に乗り込み、スタート地点まで戻った。

 

大会事務局も、ある程度は想定してはいたとしても、イレギュラーな対応に、いろいろと苦心もされたのだろうと思う。

 

結局、ホテルに戻ったのは、夜中の1時ぐらいだった。

 

その時点では、雨も納まり、周囲は平静を取り戻していた。

 

大会事務局としても痛恨の極みだったのだろうと思う。


ただ、最初の方でも述べたように、大会主催者の判断で一つで、選手の命すら危ぶまれる中にあっては、中止はやむを得なかったのだろう。

 

実際、あの状況で高い標高の山に分け入っても、今の自分の実力では、次のエイドにはたどりつけなかったかもしれない。

 

翌日の朝も、その翌日も実によく晴れ渡り、暑さが逆に厳しさを増していくぐらいで、あの夜の出来事は狐につままれたような感じだった。

 

でも、これがトレイルランニングの厳しさなのかなとも思う。

結局、この大会の成果は、何も成し遂げられることもなく終わってしまった。

 

しいてあげるとすれば、大会の運営側に携わることもあるから、このような厳しい状況の中で的確な判断をするというリスク管理を考える一つのいい機会にはなったのかもしれない。

 

 

レースの一部を写真にとどめておこうと思って何枚かは撮っていたけど、あの雨では、スマホが水濡れで壊れる可能性もあったので、これもまたしかたがない。

 

トレイルランニングは自然の中でやるスポーツ。

時に、過酷な状況になることももちろんある。

 

だからキャンセルもあるということを改めて思い知る。

今回の大会では、50か国以上の国から、選手が集まったのだそうだ。

 

選手が身に着けるビブナンバーには、それぞれの国旗が印字されている。

 

地元スペインは当然として、ヨーロッパの各地から…スウェーデン、フィンランドの北欧の国旗もみかけた。

 

アジアからも、マレーシア、中国、台湾…

 

ほんとに世界各地から、この地に来ていた。

おそらくみんな残念な気持ちには変わりがない。

 

でも、これがトレイルランニングなのだ。

特に、数年前の中国での多くの人の死亡事故のこともあり、大会事務局は、そのあたりはかなり慎重になっていたのだと思う。

 

さすがに死ぬ恐怖とまではいかないが、自分にとっては相当に厳しい状況だったことには変わりない。

だから、この中止の決定は、尊重しなくてはならない。

 

ただ、トップの選手はこんな状況の中でも、あの前半の標高2500mを越えて、約50キロ地点まで到達した選手もいた。

トップと比較することはおこがましいけれど、まだまだ力不足であったことも否めない。

 

まだ、頭の中で整理しつくせてないが、自分の今後のトレイルランの取り組みついて、もう一度しっかりと見つめなおしたい…

 

そう思って、今回のval d'aran by UTMBの振り返りを終えようと思う。