僕自身めったにない何もない休日、どこかに出かけたくなり、あまり期待はしてなかったが息子に提案すると、行くという。
ついでに(というと叱られるだろうが…)母も誘ってみると行くという。
母、私、次男の3人で出かける。
あるポッドキャストで島の暮らしについて語った番組を聞いたのがなんとなく耳に残っていたのが、記憶の片隅に残っていたのだろう。
ふいと瀬戸内に出かけることを思いつく。
昔、娘がまだ小学生の低学年の頃、二人きりで芸術の島、直島に行ったことがある。
直島の周辺にはそれ以外にもいくつかの島があり、同じようにアートが楽しめる場所がある。
そうだ!
なんか天井にぽっかり穴の空いた場所があったはず…。
調べてみると豊島美術館らしい。
今回のターゲットはそこに決まった。
夏休み期間で人が多いだろうと早めに行動するのが私流。
暗がりの中家を出る。
豊島には9時ぐらいに着く。
美術館は10時オープンでそのタイミングで入ろうと思った。
ところがそこで気づく。
美術館は予約が必要で、しかも専用アプリをダウンロードしなくてはならなかった。
こう見えて、アート巡りは結構好きだ。というより正確に言うと、アートがあるマチの成り立ちに思い巡らせるのが好きというか、そこに最大の関心があるというのが正解だ。
職業病に近い。つまり、どうやったらマチのにぎわいって生まれるのだろうとまちづくり文脈で美術館を巡って、あーこうやって人寄せしてるんだーとか、こーやって、まちづくりしてるんだーと勝手に想像を膨らませながら、自分の仕事に何とか置き換えようとする行為に突き動かされているだけなのだ。
だから、実はアートそのものは見てるようであんまり見てないかもしれない…
そもそも、絵心がない。
でも、やはり、アートで心揺さぶられるものはあるからその気持ちだけは大切にしている。
さて、内藤礼の作品である。
何百メートルかの通路があり、美術館スタッフの誘導に従って歩く。
芝地を過ぎ、森に入ってしばらくするとスカッと森が切り取られ、海が一望できる場所にたどり着く。
これも作者の意図なのだろう。
防波堤はアートの一部に見えた。
そうして、イントロダクションを終えた先に、内藤礼の作品がある。
そこは写真撮影禁止だし、ネタバラシをすると面白くないので、そこで見たものはここでは割愛する。
しかし、不思議な空間と、不思議な仕掛けに翻弄されて、あー、これがアートなのだとわからないなりに解釈をした。
さて、今日のブログは、瀬戸内芸術祭で見た私なりのb面(ゲイジュツそのもの以外)の話である。
それは何かということなのだが、自然とアートが一体となるところにここのゲイジュツの、妙味がある気がした。
滝や、岩など、自然の造形美もある意味アート的なのだが、ここは、海や島などの瀬戸内本来の自然と、人の手によって作られた里地里山と、そして人為的であるアート作品が融合することによって多くの感動を呼びおこすところだと思った。
しかし、少し残念だったのは、芝地には雑草が生え、作品のある場所は棚田の場所だが多くが耕作放棄地になっているところだった。
なので、その部分は少しがっかりとした。
絵画や彫刻物などは、作品が完成されてから手を加えるようなことはないのが普通だが、ここのアートがアートとして成り立つには、日常の暮らし、つまり人の営みがなによりも大事だと思った。
日本の風景は、やはりそこにくらしがあってこそ美しい。
豊島は、それに加え、ゲイジュツカのインスピレーションがあってなお際立つものだと思う。
ご多分に漏れずこの島も、過疎化の波にのまれ、人口減少にあえいでいるという。
ここに訪れる半分ぐらいの人は外国人だった。
日本以上に多くの人に紹介され、また口コミで広がっている場所なのだろう。
瀬戸ゲーが、これからも瀬戸ゲーとして世界を魅了するために、島の暮らしが、脈々と生き続けることを願う。