8月23日は、地蔵盆。
私の地元大笹では、毎年地蔵盆は、地蔵堂でお菓子まきが行われた。
お盆になるまでの49日間、念仏を唱えるという「子ども念仏」とセットの行事だ。
子ども念仏では最後の49日目である8月14日に子どもたちが各家々を棚経よろしく、回って念仏を唱える。
各家々は、その49日の安泰に感謝し、お布施を子どもたちに渡すのだ。そして、そのお布施で集まったお金は子どもたちの労をねぎらったことに対する報酬、つまりお小遣いと、この地蔵盆のお菓子まきのお菓子購入の原資となる。
今、この行事を支える子どもは2人、タナカくん、ニシムラくんだ。
私がその世代だったころ、10名はいたと思う。
そして、さらにさかのぼれば、もっと多くの子どもがいたはずだ。
幼児になると、もっと数が減り、あるときぷっつりと対象となる子どもがいなくなる。
今もそうなのだが、
『子どもがいないから仕方ないよね』
という言葉で済まされることが多くなっている。
担う人がいなければ続かないのは当然のことだ。
そして、これら伝統行事はそれをしなかったからといって直接的に困りごとが発生するわけでもない。
ある日突然、すーっと消えていくのだ。
しかし、このある日突然、すーっと消えていくことが実はかなり危険なのだと思う。
これらの伝統行事はなぜ起きたのだろう。
子ども念仏は、昔、原因不明で男の子が多数なくなることが続いた。
そこで、地蔵さんに念仏を唱えたところそれらが治まった。
それからこの行事は何百年も続いてきた。
非科学的といえばそれまでだが、世の中には未だ、科学では解明できないことは多数存在する。
いやむしろ、それらが行われることで、そこに子どもたちのコミュニティが形成されたり、その集まりが地域のコミュニティの強さにつながったりして、地域住民が思わぬ力を発揮することに寄与してるかもしれない。
だから、すーっと消えてはいけない。
少子化は日本全体の課題である。
夫婦が子どもを産み育てる数が減ったからからなのだが、ある意味、連綿と続く過去からの歴史を人々が考え、まだ見ぬ未来のことを考えていたら、もしかしたらそれは起こらなかったかもしれない。
そこには科学では片付けられない哲学、宗教も関与してくるのだろう。
今年もこの行事が無事に終えていただいたお地蔵様に感謝し、我々は、再び日々念じながら生きていこう。