人は人でしか救えない | ニシムラマサキのブログ 【株式会社 西村工務店 代表取締役】【 SASAYA・うづかの森 オーナー】

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どうすれば地域を『素敵』に変えられるのか、誇るべき田舎になるのか、そんなことばかり考えています。

昨今のトピックスは、チャットGPTの話題だろう。

 

AIが学習して、さまざまな回答を対話しているかのように、繰り出してくるのだという。

大学では、そういった技術を学生が悪用し、さも自分が調べてきたかのように論文を出したりするようになることを懸念し、規制する動きもあるのだとか。

 

あらゆるテクノロジーが高度化し、おせっかいぐらいに、世の中に浸透し、私たちの生活を豊かに便利にする一方で、さまざまな弊害をも生み出してくるようになってきている。

 

このながれをもう止めることは決してできない。

 

そんな中で私たち人間が、したたかに生きていくために何が必要なのだろうと考える日々だ。

 

私は大きく二つの側面があると思っている。

 

一つは創造するということだ。

私はヒトは偉大だと思う。さきのチャットGPTにしても、それは人が生み出したものだ。何年後かにシンギュラリティ―がおきると言われている。ある意味それはおこるかもしれないが、やはり人間の創造性に勝るものはないと思う。

 

コンピュータは、あらゆる事象をとらまえ、それをデータとして蓄積し、そこからはじき出される答えを無数に生み出してきた。

 

しかし、人間はあるものを見ても、それを別に解釈するという創造性もあわせもつ。

人が描き出す絵画を見ながら、ときどきそんなふうに思うことがある。ある事象を見たり、あるいは頭の中で空想して、筆を走らせて、何かを描きだす。そしてまた、意図してか、はたまた意図せずか、筆が走った軌跡がそこに描きだされ、一つのテーマとして目の前に現れる。

 

そしてまた、作品の思いとはまた裏腹に、それに対峙する人も、勝手に思いを巡らせ、自由に解釈し、自分の中にインプットしていく。さらには、そこから得たインスピレーションが役にたつか経たないかそれすらわからないけれど、その絵に対峙したという経験は、その人の中に取り込まれ、次の何かの礎になっていく。

 

そういったことが日々繰り返され、人間の社会の歴史がひとつずつ積みあがっていくのだ。人間が生き続ける限り、それはずっと続いていくことで、いくらコンピュータが優れていようともそのような人の営みを越えていくことなど不可能だ。

 

 

もう一つは、人は豊かな感情を持ち合わせる存在だというだ。

 

怪我をして痛い気持ちになる、人を喜ばせて、自分もうれしい。そういう人の内面から湧き上がる感情というものは、おそらくどんなにコンピューターが高度化しようとも、そういう得体のしれない感情を持ち合わせることは決してないということだ。

 

人が命あるものとして存在するが、そこには必ず終わりがある。命として誕生するとき、さらにその命が輝こうと懸命にもがく。ときにぶつかったり、へし折られたりするが、それでもなお、死ぬ一点が車で、その命が輝こうと懸命にもがく。そして、最後には命尽きる。そこにまた、さまざまな感情がうごめく。

 

おそらく、生きとし生けるもの、動物や植物、菌やウイルス、すべてがそういうものを持ち合わせているのだろうが、人間ほどの感情は持ち合わせていないはずだ。

 

そして、豊かであると同時に、人の感情は繊細だ。少しの変化をも感じ取る。

 

人が感情をもって生きていくこと。そして創造していくこと。結局のところ人が、これまでどおり人らしく生きていくことが、どんな時代にあっても大事だということ。

 

悩み苦しみながら生きていく。喜びや楽しみを享受しながら生きていく。何も恐れることはなく、ただただ人として、精いっぱい生きていくこと。

 

そこに尽きるのだ。