但馬国全図から見る熱田 | ニシムラマサキのブログ 【株式会社 西村工務店 代表取締役】【 SASAYA・うづかの森 オーナー】

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どうすれば地域を『素敵』に変えられるのか、誇るべき田舎になるのか、そんなことばかり考えています。

先日、神戸新聞に畜産関係者が熱田を訪ねる記事が出ていたので、思わずツイートした。

 

 

現在、和牛の聖地、熱田に行くには、国道482号を小代から、鳥取方面に向けていくルートが一般的である。

 

 

この地図にあるように、赤線が、国道482号である。小代には、国道9号線の村岡区長板から、南下していくことになる。熱田の手前の集落が秋岡。ここから、約5キロの道のりだ。

 

地形図からもある程度想像できると思うが、秋岡から熱田まで行くには、小代渓谷と呼ばれる両側が川からせせりたつ谷間を縫って熱田に行かなくてはならない。

 

このきわめて急峻な谷間によくぞ国道をつくったものだと感心するが、今日述べたいのはこれが本題ではない。

 

実はこのルート。昔からあったものではない。

いつからできたのかということは調べ切れていないが、そうでない証拠が下記の地図である。

 

これは、『但馬国全図』とされる地図の一部である。方角は、真逆になっていて、北側が下側、南側が上側である。

 

どういうきっかけだったのかはあまり覚えてないが、但馬の登山道は、だいたいが、人が生活道路として、利用していた古道であって、それを古地図から探ってみようと思って、検索していたのがきっかけだったと思う。

 

いろいろと検索しているうちに、国立国会図書館デジタルコレクションというサイトにたどりついて見つけたのが、この地図だ。

但馬国全図(国立国会図書館デジタルコレクション)

 

この地図は、安政年間(1855年~1860年)につくられたようだ。

(地図上に安政の文字が見えるので、そうなのだと推察するが、書かれている文字が、達筆すぎて、私には、記載している文字がよく理解できない(泣))

 

ちなみにペリー襲来があったのが、1853年であるから、幕末のころだ。

 

この地図には、集落と、それをつなぐ道が記載してある。

私が住んでいるのは、大笹(ハチ北)だが、それと新屋をつないているルートも描かれているし、熱田から、養父市大久保や別宮への道も記されていて、今は舗装された県道や町道になっているところもあるが、山際のルートは、現在登山ルートとして使われている。一部は藪になって道が消えかかっているところもあるが、私が変態活動と称して、これらトレイルを走破しているところも、実はこれらの古道だ。

 

この但馬国全図に書かれているルートで、小代越⇒ソナエ⇒アツサへと通じる道は、まさに私が初めて熱田を訪れたルートそのものだ。

 

 

しかし、もう一度、但馬国全図をみてほしいのだが、アツサ(熱田)への道は、ソナエ(備)からのルートしか描かれていないことに気づいただろうか?

 

つまり、現在私たちが使っている国道482号は、昔にはなかったものなのだ。

 

冒頭『熱田を本当に理解したいなら、とちのき村がある備(そなえ)から四十曲がりを通って熱田に行くのが一番だと思う。』とツイートしたことを紹介した。

 

さきほど、秋岡から、熱田までは約5キロの道のりといったが、それは、昭和に入ってからできたルートであって、昔は、そのルートは存在せず、熱田に行くには、秋岡⇒新屋⇒備⇒熱田というルートを通るしかなく、さらに倍の10キロほどの道のりしかなかったということなのだ。

もちろん、古道は、今のように舗装された平坦な道ではない。備から熱田に行く道中に、四十曲がりと呼ばれる場所があるが、つづら折りになっているその場所は、きわめて急峻な道でもある。熱田に行くのがそのルートだったことを知れば、但馬牛の歴史上、危機を迎えた外国産牛導入による荒廃をまぬがれた理由に、心から納得できることだろう。