私の家の窓から見上げると、中山と呼ばれる棚田エリア、そして瀞川山を望むことができる。
もう何十年も見慣れた風景なのだが、最近ここに居を構えるようになったある方は、窓越しに、毎日見えるこの風景を見て癒されてるという。
となれば、私や、この地域の人々は、心が浄化されまくっていなければならないわけだが、どうもそうはなっていない(笑)
悶々とする日々。
この感覚の違いたるやいったいなんなのか…またそれに頭を悩まし悶々とする悪循環
半分冗談だ(笑)
私自身は、この地に生きてもうすぐ50年になる。ここから、離れられないのは、やはり、この景色に接しているからに他ならない。
ただ、こうも思う。
この地域に生きていて飛び込んでくる風景だが、その半分は人がつくりだしたものだ。棚田の風景もしかり、また森(というより林と言ったほうがいいか)も、その多くは植林によるものである。
実は棚田の多くは今は耕作放棄地となっている。厳密に言うと、もと棚田だった荒地が半分。だから畦も手入れはされていなくて、法面はススキなどでおおわれている。
風景のためにこの村を運営するわけではないのだが、そういう視点はやはり大事だと思う。
マチに行って路上にゴミが放置されているからと言って、それですぐになにが困るわけでない。
だけれど、それがあることによって、その場所のかがやきは失せる。
それと同じで、やはり景観を守るというか、人間の美意識に働きかけるように、ムラを維持していくという意識は大事なのだろうと思うのだ。
空き家の問題にしても、それがあってすぐに何が困るわけではない。
しかし手入れにされていない家がムラの一角にあれば、それでムラは台無しになる。
もちろん、棚田にしろ、空き家にしろ、畔を刈りこんだり、外壁をペンキで塗りなおすなりすればいいという話ではない。やはりそこには人の営み、つまり実利があることが前提なのだが。
最近、感じることは、火事の火消しに追われてばかりいるような気がしてならない。
火災があれば、広がらないように消火活動するのは当たり前なのだが、何かそんな対処療法的な営みしかできていないように思える。
本来は、火事がおきないように、予防啓蒙に勤めていく、火災になりそうな原因を取り除いていく。そういうことを地道にやっていくことが結果的に火事を防ぐ最も重要な方法だ。
ムラづくりも、人が減ったから、人を増やすのではなく、そもそもの人を減らさないことが大事だし、10年後、20年後、先の世代見据えて、木を植えていくことが大事なのだ。
木は果実になるまで相当の年月を要する。もしかすると自分自身では果実を手に入れることはできないかもしれない。しかし、木を植えない限り、果実を得ることなどできないのだ。
未来をつくっていくということはそういうことなのだと思う。
コロナに振り回される、ウクライナ問題に振り回させる…
そういう事態はあってほしくないことだけれど、あまりに目の間の対処ばかりにとらわれ、人々が疫病に強い健康な体を手に入れるにはそもそもどういう生き方をしなきゃいけないのか…、国際情勢がどうなろうとも、人々が食料やエネルギーに困ることなく安定的に手にしている状態というのはどういうことなのか…
そんなもっと根本的なことを地道にコツコツ積み上げることが私たちに大事なことだと思う今日この頃。