お盆が近づき、ここ数年の私のルーティンとしているのが、墓掃除だ。
実は、8月14日の盂蘭盆会以上に今は自分の中では重要なことだととらえているのかもしれない。
例年、時間をみては墓の掃除に出かけていた。だけど、今年は横着をして春から一度も墓に行くことはなかった。
自分の怠慢を少し反省しつつ、がっつりと墓掃除に向かう。
墓掃除もやり始めるときりがなく、おそらく延べ6時間ぐらいは墓に向かっていたかもしれない。
私自身が、直接墓地に足を運び、手を動かす。それと同時に、墓と対話する時間にしている。
もちろん、私自身は、霊能力者でもないので、先人と本当に対話しているわけではない。
自分の身のまわりにおきたことを、先人だったら、何を感じ、何を思ったのか…
そんなふうに想像しながら、自分自身を振り返るのだ。
そして、自分自身の死についても、少し思いを巡らせる。
明日かもしれないし、もう少し先かもしれない。
だけど、間違いなく死ぬ。
なぜ僕はここで生まれたのか、そして死んでいったら、この墓の中に僕は入ることになるのだろうか…。なぜこの墓なのだろうか…。
自分が亡くなったとき、息子や娘たちは、僕がやっているように、墓の手入れなどもすることになるのだろうか…などなど…。
普段考えもしない問いを次々に巡らし、分かったような分からないような解を自分でみつける。
ある意味哲学的な問答を延々繰り返す。
結局見つけた答えは何もなかった。
ただ、一つだけわかったことがあった。
この墓にきっと入るであろうということは、ここを生活の場にしているからだということ、つまり『ここ』で生きるということ。
ここで生きるのなら、あれやこれや言い訳もせず、ここでできることを精いっぱいやっていこう…。
人生は長いようで短い…はず…。