昨日書かせていただいた『人はいつまでも誰かの役にたちたい』という記事で、尊敬するダンディ久保さんよりコメントをいただきました。
コメントを読ませていただいて共感するところ大でした。
情報の格差ということが昔から言われています。
都市には、人、モノ、金、そして情報が集まり、私たちの住む田舎はそれに比べると見劣りをする…
例えば、私の住むところは、数年前に某電力会社の高速通信が使えるようになりましたが、それは、都市部から数年遅れていました。電話会社の高速通信は、今後も敷設する見通しはないそうです。
また、場所によっては、携帯の電波が入りにくいところがあったりします。
だから、おおざっぱな論としては正しいと思います。
しかし、ダンディーのコメントを読んで、それは間違いだということに気が付きました。
それを阻害するのは、その人の心の問題なのだということです。
私自身、スマホを手にしたのは、世に出回ってから数年たってからでした。
私は、最新の機器を追い回すのではなく、ある程度周りの様子をうかがって手にするほうです。
ガラケーを持っている人に、スマホにしたらめっちゃ便利だよ
って今はよく人に言ってますけど、当時は、
『そんなん使ったら、自分の人生狂うやん』
ぐらいに思ったりもしたぐらいです。
スマホが主流になり、ガラケーがマイノリティになった今となっても、いまだにそれに固執する人っていますけど、あながちそんな人を責めるようなことはできませんが、しかし、そういうことで便利になっていく世界を信じようとしないのは、田舎の人や高齢者にはありがちな話だなぁと思うのです。
例えばLINEというプラットフォームの中に参画することで、そこでコミュニケーションができます。
その中で自分自身が気づき、学ぶことは多々ありますが、その中に入れなければ、そもそもそういうことにさえ気づくことができないわけです。
使ってみて、ダメなら、離れればいいだけですが、それをハナから拒絶すれば、その輪の中に入れなくなるのは必至です。
一般的に物理的に不利だと言われているところでも、そういったデジタル機器を使いこなし、多くの果実を手にしている人がいて、田舎は不便だと言っている人に限って、そういう手段を講じない人が多いような気もします。
自らが積極的に、今の社会に乗っていこうとする気持ちがあれば、デジタルデバイドものは実は存在しないのではないか…
それは、自らが社会に乗っていこうとしない言い訳にしているだけなのではないか…
そんなふうに思います。