私は、高校時代から通算すると、20回以上国体(国民体育大会)スキー競技会に出場できる機会を得ました。
スポーツは大好きで、体を動かすのはまったく苦になりませんでしたが、特別運動神経がよかったわけではありません。
人並みぐらいにはほかの運動ができたとは思いますが、だからといって特筆すべき才能もありませんでした。
国体に出るには、各都道府県の予選を勝ち抜かねばなりません。
少年の部(16~18歳の部)、成年Aの部(19歳~25歳の部)、成年Bの部(26歳~34歳)、成年Cの部(35歳以上)
とそれぞれのカテゴリーはあるものの、その中で上位に入らないといけません。
特に社会人になってからは、年々体力は衰えていくわけで、歳を重ねるごとに自分より年齢の若い人が繰り上がってきて、そういう人たちと戦わなければなりません。
運動センスがないと理解していたので、自分がスキーで活躍するようになるには、とにかく練習の量でカバーするしかないと思っていました。
だから、学生の頃は、それが合理的かどうかはあまり考えず、とにかく滑走量を増やし、陸上トレーニングの量を増やすことだけは、誰にも負けないようにしていました。(だから、無駄なこともいっぱいしたと思いますが…)
大学生の頃、あるスキー雑誌で、全日本アルペンチームのトレーニングメニューが紹介されていました。
半ば職業スキーヤーである彼らですので、それを仕事としていた彼らのメニューはすさまじいものでした。
逆に日本のトップになるには、それぐらいの練習はしないといけないのか…そんなふうに思いました。
時を同じくして、私の大学の同輩たちは、長野白馬高校など、強豪からも随分来ていて、その彼らの先輩後輩たちはインターハイなどでシングルに入るメンバーがいて、そういった人たちと交流する機会をもつことができました。
やっぱり、そういう人たちの体はすさまじく強靭でした。
それよりも下手くそな私はそれ以上のメニューをこなさなくては近づくことができない…
そう思い込んで、トレーニングメニューを組み、それをこなすことを決めました。
体はいつも筋肉痛で悲鳴をあげていたけれど、誰よりも長くゲレンデに残りひたすら滑り続けたり、陸トレでも、無謀なことをたくさんしました。
いつも周囲のみんなに、
『トレーニング量だけは全日本並みだな』
と半ばあきれらたりもしたけど、兵庫という、いわばスキー弱小県に住むものが追い付くには、それぐらいしか思いつかなかったです。
大きな偉業をなしとげたわけではないけれど、ナショナルチーム並みだと自負する練習をしてきたことは、自分の実力を大幅に向上させることができたので、やはり練習の量は裏切らなかったのかなと思っています。。
私は、センスとか才能とかいったその人が本来持つ優れた能力いうものは確かにあると思っています。だから、センスのいい人はすぐに技術を覚え、いとも簡単にものごとをやってのける人をときどきみかけますが、そういうものがあると思うのです。
だから、能力の低い人はそれを凌駕する量でカバーするしかありません。そして能力の低いものは、質を追求するためにも相応の量をこなさなくてはいけないのだと思います。
あるスポーツで目標を成就させようと思えば、すぐれたメソッド、優れた環境の中に身をおくことは重要と思います。
例えば、スキーという競技では、やはり滑るという行為が重要です。いくら陸上で走り続けてもスキーがうまくなるわけではありません。でも、だからといって一見そういう無駄とも思える行為が本当に無駄になるとも思いません。
しっかりとした体力を備えれば、人が半日でへこたれるところを1日中、滑り続け、技術を身に着けることができます。
1本の集中力が、そういう備えができていれば、そうでない人に比べ全く異なると思います。
努力を続けた者には絶対にかなわない、私はそう信じています。だから才能のないやつは量でカバーする…そういうことなんです。