北海道東川町に行って、考えさせられることは多かったのですが、その中でも『敷地』とはいったい誰のものか?ということを深く考えています。
アメリカのオースティンに行ったときもそうだったのですが、道路から自宅の玄関まで、おそらく5~10mぐらいはセットバックしていたのですが、そこには塀や柵といったものはなく、芝生の広がる場所でした。
おそらく、その広がる場所は個人のものだとは思うのですが、そうやって開放していることで、空間の広がりを感じずにはいられませんでした。
もちろん、犬の散歩をしていれば、その芝地に入り込むこともあるでしょう。
だけれど、そうやって広がりのある空間は、その土地の価値をぐんと高めていました。
日本では、自分の敷地を塀や柵で囲むのは当たり前のこととしてとらえています。私はそのことに対して、何の疑いも持たなかったです。
だけれど、東川町に行ったときのあの敷地の感覚には、強烈なインパクトを覚え、土地とはいったい誰のためにあるのか…?ということを考えざるを得ませんでした。
もし、うちの町もそんな心構えがあれば、もっと田舎は楽しく素敵な場所になるに違いないと思います。
そういえば、小布施に行ったとき、ガイドさんに連れられ、マチ歩きを楽しみましたが、その時も、おそらく許可を得たものだとは思いますが、個人の庭先にズカズカと入り込んで、庭の植栽を楽しみながら歩かせてくれたことも強烈なインパクトとして残っています。
私は、庭先は、土地そのものはプライベートのもんだけれど、それはそこに住むみんなのもの、共有すべきもの、ととらえることがコレカラノマチをうまく形づくっていくのだと思います。
あれからというもの、道を通るたびに、あちこちのガードレールや、柵、塀、そんなものをみながら、それがない状況を想像してばかりいます…。