昨日地区は、コミュニティの中でもとても重要な位置づけにあるというお話をさせていただきました。
ネットをいろいろ調べてみると、昔の地図をいくつか見ることができます。
以下に三点の地図を示しておきます。
『伊能大図』
かの伊能忠敬さんが、はじめて全国の地図をつくりあげたのが、1815年、資料によると近畿地方を行脚したのは、1805年ごろのようでして、『伊能大図』なるものが存在しているんですね。
で、山陰道もちゃんと歩いてました。
この周辺で言うと、福岡、黒田、宿、日影と記されていることがわかります。
『但馬国図』
それ以外にも、こんな地図(1850年ごろ)やら、
『但馬国図』
とかこんな地図(1835年ごろ)とかでてきました。
下2つの図には、我が大笹(当時は大篠だったようで…)もしっかりと記されています。
こういった資料から、江戸時代には、『地区』はそれぞれ『村』としてしっかりと認識されていて、基本的なコミュニティの単位として成立していることがわかります。
高度成長が続く前は、ムラは、農業を中心とした生活の単位であり、それが生きていくうえで重要な基本単位でした。
但馬は但馬牛として有名ですが、牛を農耕用として利用し、夏は山に放牧し、また、夏に山から集めた牧草を冬には蓄えてえさとしてあげていました。牛から出た糞尿は田畑の肥やしになり、また稲ワラを集めて、牛の床にしたり、それらで民具(ぞうりとか、笠とか)をつくったりしました。
牛は個人の財産だったけれども、それを管理するために、土地を、各家ごとに分割するのではなく、共有地として管理にすることで、サスティナビリティを実現していたわけです。
さらには、以前にも述べたように、山でかり集める茅場も共有管理して、それらを集草することで、多量に必要となる茅の材料が手に入れることができました。
そんな形で、資源循環をしながら生きていたわけで、一つの地区の単位ができあがっていったのには、そういう背景があったと思います。す。
私が想像するに、昭和30年代からの高度成長時代などを経て、人のマインドがそのころから大きく変化し、そして、この間にいわゆる基本的な『村(地区)』という単位が大きく崩れてきたのであろうと思います。
ただ、一昨日のブログでも述べたように、地区としての明確なコミュニティの形がありながら、それを行政システムの中に組み込まれることなく、行政(地方自治)運営と、地区の運営が乖離してしまったところから、地区としてのアイデンティティが崩れてきたのではないかというのが私の見立てです。
他の地区でもおそらくそうだと思いますが、私の地区ではさまざまな取り決めを、村の総会で行っています。
『総会』とはしながらも、一つの家族に一議決権があり、通常は世帯主が総会に出席し、その議決権を行使するわけですから、そういう意味でいうと、直接民主主義というよりも間接民主主義であったわけですね。
しかし、それらをとりまとめ区としての代表権を有する区長は、町行政に対しての議決権は有しておらず、それとは別に町議会があり、さらには行政の首長は直接選挙で行われています。
なぜそのような経緯をたどったのかということまで調べていくと、際限がないので今はやめておきますが、急速にコミュニティが失われている原因の一つはそういったことにも関係していると思うのです。
先日、廃村となってしまった熱田を訪ねましたが、『現在』の常識から考えると、なぜ、あんな奥まったところに集落が存在するのか不思議に思いますが、里山資本を使いながらサスティナブルな経営ができるために地区が存在していたと考えれば、合点がいきます。
今、グローバルな世の中になって、社会がそれに飲み込まれていますが、それでよしと容認したとしたら、果たして、私たちは今後もこの地域で生きながらえるのでしょうか?
一方で、東日本大震災が示したとおり、未曾有の災害がおこれば、たちどころに窮してしまう姿を、あれだけの大きな都市が示したことを考えると、これからどんな危機がおこるかわからない中で、そういう危うさも都市は有していると思うと、地方などたたんで、コンパクトにまとめてしまえばいいということがほんとうにサスティナブルなのかと疑問に思わざるを得ません。
一つ思うことは、昔の地図が物語るように、一つ一つの集落がプライドとアイデンティティを持ち続けることができれば、さまざまな危機を乗り越えるだけの、しなやかさもあわせてもちあわせることができるのではないか…私はそんなふうに信じています。