前知事の猪瀬直樹さんのツイートからインスパイアされて記事を書きます。
お彼岸やお盆の墓参りの習慣は、季節の花を飾ったり、自然の恵みのなかに生きている意味を味わう、繰り返しの小さな旅です。ペンダントにお骨を入れたから、とか、ネットでお墓が映るとか、そういう浅薄な合理主義は、むしろ義務的で一時的なもの。 https://t.co/QxbtKYILqc
— 猪瀬直樹/inosenaoki (@inosenaoki) 2018年4月9日
墓をなくすというビジネスがあるんですね。
ビジネスがあるということは、そういうニーズがあるということなわけですから、多くの人が墓を持つことに対する煩わしさを感じておられるということなのでしょう。
私は、猪瀬さんがおっしゃるとおりだと思っていて、私の経験を書きたいと思います。
私の祖母が10年ぐらい前に亡くなりました。
うちは真言宗の檀家なのですが、宗教儀礼の慣習にしたがって、7日法要という7日ごとに、お経を唱えるという行事を都合7回行いました。
詳しいことは宗教家に委ねるとして、人がなくなってから、49日間、極楽浄土へ旅立つための修行があって、それが無事成就するために、家族が集まり、7日ごとにお経を唱える…。
確かそんなことだったと理解しています。
正直7日ごとに集まるのは、苦ではないといえばうそになります。やっぱり煩わしい…
ですが、それをずっと続けた中で感じたことは、そういうことをやることで、家族の絆が深まったのと、祖先に対する感謝の念が呼び覚まされたというのでしょうか、そんな気持ちになったことは事実でした。
誰の発案によるものなのか、お釈迦様だったのか、弘法大師だったのか、そのあたりもよくわかりませんが、そういう仕組みをつくられ、家族がそういうふうに仲良くなるそんな機会をつくってくれているんだろう…ってそんなふうに思うように感じました。
3回忌とか7回忌などの法要、彼岸や、盆などに、墓参りをして手をあわせる…
そこに意味がないと思えば、それは単にわずらわしさしか残りませんし、そうなれば、『墓じまい』のようなことにもつながるのでしょう。
しかし、なぜそういう宗教儀礼をつくったのかというルーツがきっとあるわけです。
さまざまな疫病が流行ったり、作物が不作になったり、災害がおきたり…、科学が発達しなかった昔、人は祈ることでそれらを克服してきたのだと思います。
今も理不尽と思えるようなことがおきるし、まだまだ世の中わからないことだらけです。
そして、そういう儀礼を通じて、人と人とのつながりを感じたり、先祖や万物に対する感謝の念をもつことで、自分自身を変えていくことができるわけですね。
そうやって何百年、何千年もやってきたことが、ごろっと変えていける世の中にはなっていなくて、むしろこんな混迷な時代だからこそ、むかしからずっと続いてきたことを私たちもすることには大きな意味があるだと思うわけです。
私、当時、なぜやるのかわからなかったので、僧侶に聞いたことがあります。
僧侶は、いろいろとその意味についておしえてくださいました。
なぜやるのかが理解されてくると、腑に落ちました。
日本人が昔から大切にしてきたものを、大事にすることをもう一度見直していきたいものだと思います。