今日は、朝からとっても穏やかな日でしたね。
以前から墓の掃除ができずに気になっていたものですから、本日しっかりと時間をかけて、やってきました。
『彼岸』である9月23日は、ハチ北の秋祭りの日でもあり、また今年はダブルフルマラソンを翌日に控えての、かなりタイトなスケジュールでうっかりとすぎてしまい、それからの後の休みの日もなんだかんだとスケジュールが入り込み、さらには週末には台風が接近するなどして、なかなか身動きがとれなかったのですね。
(と、できない理由はいくらでもいえるわけですが…)
そんなこんなで、ずっと気になっていた墓掃除ができて、心もすっきりです。
墓掃除を一心不乱にやったといいたいところですが、墓掃除をしながら、いろいろな感情が渦きます。
今日は、文化の日だったとういうこともあってか、人が『美』感じることととはどういうことなのだろう…と考えにふけっておりました。
だって、墓掃除をやることそのものも、その場所を『きれいにしたい』という気持ちがあるからに他ならず、雑草が伸び切ってしまった状態を人は美しいとは決して思いませんよね。
自然の摂理で、どこからか種が地面におちて、やがてそこから芽がでてきて、伸びてきたり、根を生やした草が、横に這うように伸びたり…
そういう状態は美しくないと思うわけですね。
墓掃除のことを芸術とは決して呼ばないけれど、しかし、掃除という作業を通して、人が理想だと思う形に整え、そこに安らぎなどを感じるということは、芸術作品をつくりあげることとおんなじプロセスではないか…と思ったり。
実際、絵画を製作するということに関していうと、キャンバスにできあがったものは、芸術作品として扱われているけれど、製作をする過程で、作者はひたすら絵の具を筆で塗りたくっているわけで、行為そのものを芸術だと呼ぶ人はいませんよね。
そう考えると、なんだか、墓掃除そのものが、芸術作品をつくりあげているかのような錯覚に思えてきました。
誰かに見せるわけでもなく、自分ひとりただひたすらに自己満足の世界なのですが、大芸術家になったような気分にひたっておりました。
また明日から、雑草がのびはじめ、落ち葉がおちたりして、元の木阿弥にもどっていくのでしょうが…。