内閣府が発表している「我が国と諸外国の若者の意識に関する調査」という資料を拝見する機会を得ました。
それをみると、日本の若者が将来に対する大きな不安を抱いていることが数字上でみてとれます。
私はこの数字をみて、若者だけの意識ではなくて、私たち責任世代の意識ともリンクするのだと思いました。
生きていく上での不安を抱えていない人などまったくゼロではないと思います。
しかし、すべてを失っても生きられるだけの術を身に着けている人は、総じて強いと思います。
先日、あるテレビをみていて、貧乏な人ばっかりが出ている番組をちらみしました。
ちょうど私が見たのは、20代の青年夫婦。
1か月の生活代はわずか3万円。
ほとんどを自給し、電気もほとんど使わないそんな生活。
彼らは、大学時代に、カンボジアへのNPO活動に参加した際に出会った二人だそうですが、貧しくともきらきらと輝くカンボジアの子供たちをみて、ほんとうの幸せとは何かを模索して、その自給生活をはじめたのだとか…。
現代っ子らしく、携帯電話は持っているようですが、携帯電話の充電はソーラーパネルで発電した電力を使うようなエコな暮らし。野菜やコメを自分たちで生産し、薪も山から木をとってきて煮炊きや風呂に使う。
山菜や木の実なども取りに行って日常の食卓に並べる。3万円で生活できるから、近所の農家さんのお手伝いに行ったりして、収入はそれで賄っている。
あー彼らならきっと、どんなことがあっても生きられるだろうなーって思いました。
そんな生きていく術を身につけた彼らは、「生存する」という意味での生きるということについては、ほとんど不安を感じないのだと思います。
一方、すべてを買うという行為ですべてを手に入れる生活は、それがなければとたんに生きていけなくなるわけです。
「働く」という行為も、自分自身が直接的に生きるための術ではなく、「サービス」という「生存する」ということからは少し離れたことで、お金という信用で成り立っている紙切れを手に入れ、果たしてこれがほんとの紙切れになるのかもしれないという実態のない中で生きているのです。
そう考えると、不安を取り除くためには、生存するための術、農作業をしたり、山菜とりにでかけたり、魚つりをしたり…生きる術の傍らでもすること自分たちが生きているという実感を感じることができて、それが不安から解放される一つの手段なのかなと思います。
都会での生活は、確かに便利です。ですが、不安を感じない生き方というのは、やはり田舎にこそあるような気がします。