
しつこいですが、ハチ北自然協会50周年の話題がまだ続きますよ(笑)
でも、私にとってもそうだし、地域にとってこの50年の節目は、これからの本当の転換点になると思うからです。
山奥の棚田が広がる地域は多く存在します。そして、時代の移り変わりに伴い、疲弊しすたれていったところは数しれません。
小代の熱田という地区は、廃村になりいまは誰も住んでいません。
他にもほんとうに消えかかっている集落はこの町内に、いくつも存在しているし、ご存じのとおり限界集落を数え上げればきりがありません。
しかし、50年前に、先人達が英断を下してくれて、スキー場の開発に踏み切りました。
スキー場は今も、大阪に本社がある会社が経営をしていますが、当時、外部資本が参入し、スキー場開発をすることに、反対も多くあったそうです。
「黒船襲来のごとく、このむらは外部の人間に無茶苦茶にされるんじゃないか…」
ムラの未来を憂いた人が、そういう人に説得に説得を重ねて、合意を取り付けていったそうです。
当時、村岡町長だった谷洋一先生も協力して、単なるビジネスに終始することなく、「地域の発展」ということにつながるよう、「村」「行政」「会社」が三社協定を結び、その協定に基づき、役割分担をしながら、開発がすすめられてきました。
そういったものを経て、今、ハチ北は関西でも有数のスキー場に成長してきました。
私や家族がここで暮らすことができるのも、冬季に出稼ぎにでることなく、地域で1年中働くことができる人が多いのも、スキー場があったからこそです。
いま、地方創生が叫ばれていますが、まさにスキー場は、地方創生のさきがけであったといえます。
50年という月日が流れ、時代も移り変わり、地域は新しい局面を迎えています。
この50年という節目を迎えて、多くの先輩たちに、当時の話をたくさん聞くことができました。
スキー場開発に携わった大冒険家、三浦雄一郎さんからも、未来はこうあるべきだという示唆をたくさんいただきました。
先人たちが英断を下したその気概と努力を、私たちも身に着け、次の50年につながる行動をしていかなければいけません。
この冬は、本当に厳しい冬で、財政的にもずいぶんと厳しく、理事長もこの50周年をやるべきかどうか相当悩まれたそうです。
今回費用も相当使いましたが、自分たちの立ち位置が確認するためには必要な経費であり、もっといえば、次につなげるための投資なのだと思います。
それを次に活かせるかどうかは、次の私たちの行動にかかっています。
次の50年に、次世代がさらに飛躍してくれるよう、私たちが努力を積み重ねていくことをここでコミットメントします!