私が会社で、『農』に取り組むようになって、3年目を迎えました。
『農業』と呼ばないのは、業になるには程遠い状況だからです。
情けないことに、私個人はいまだ米をまともに作っている自負心がなく、いつも他人任せのことで、社員のみなさんにつくっていただいているような状況です。
農業に対する風向きがだんだんと変わってくることを感じたのが、10年ぐらいだったでしょうか?
その頃から、農業の風雲児と呼ばれるような、農業の従来の枠組みを壊して前に進むひとたちが現れ始めました。
いまだ、耕作放棄地の問題はクリアーにはなっていない当地域ですが、他のところでは若いベンチャースピリッツをもった方々が果敢に挑戦していることを見るにつけ、地域の未来に『農』なくしてないなーとおぼろげに感じていました。
とにかくはじめてみて、いまだ成果を手にしてはいませんが、地域の課題などは従来に比べるとずいぶんと見えるようになってきました。
アメリカなどをはじめ、大資本の農業産業が一方で存在する中で、そこで互角に戦うこと自体に無理があります。
しかし、安くで供給される農産品が、市場を席巻していても、その『価値』は一定でないことに気づきました。
一つは安心の価値、どんなに安くても、それが安全でなければまったく価値をなさず、安心の上限には、限度がありません。いま、成功している人はそこを前面におしだしていますね。
有機栽培、あるいは、不耕起栽培などに代表されるように、徹底した安心感をつくりこむことでその価値を飛躍的に高めていくという方法その代表ですね。
他に思ったのは、『農』は人と人とをつなぐコミュニケーションツールになりうるのだということです。
どちらかというと私達が動いている方向はそちらの方といえます。
人がつくったものを他の人が食べるという行為を単に物質的なモノの移動と考えるのではなく、人の思いを他の人が受け取るというふうにおきかえれば、それはすなわちコミュニケーションの手段になのです。
いま、コミュニティーの崩壊が叫ばれていますが、食べ物をつくるということが、そういうものを補完するツールだと考えると、社会のさまざまな問題にも対応できる可能性があるのではないかと思います。
SNS全盛の時代ですが、それだけがいわゆるソーシャルなネットワークではありません。SNSは時代が求めたもの、つまりコミュニティーの欠如がその道具を進化させてきたのだとすれば、きっと『農』にもその力があるのだと思います。