自戒をこめて書きます。
いうまでもなく、対話はとても大事です。
しかし、その言葉には大きな落とし穴があることを忘れてはいけません。
対話という言葉を使う場合に『お互いが対等な立場で話をする』という意味が含まれていますが、友人どうしの会話でもない限り、必ずどちらかが主従の関係があることのほうが多いと思います。
親子、会社の上司と部下、役人と住民、政治家と住民…数え上げればきりがないですが、だいたいにして、どちらか一方に大きな権力などを有していることが多いものです。
そんなときに、大事なのは、大きな権力をもった側が意識して、目線をそろえるようにすること。
まず対話のテーブルをセットするのに、そこに大きな壁がたちはだかります。
例えば、行政と住民の対話をセットするとしましょう。
このような場合、圧倒的に行政のほうが優位に立つ場合が大きいので、会議は、だいたいにして、日中に行われ、役場などの会議室で行われるほうが多いです。
となると、本当は住民の声として拾わなければいけないのは、日中にお仕事とかで忙しかったり、子育てなどで忙しい人であって、そうなると、本当は役所側が地域に出向いて、仕事が終わった夕方以降だとか、場所は地域の集会所だとかそういうところでやることのほうが、本当に住民目線の対話ができると思うのです。
会社でもそうでしょう、現場のより近いところでの立ち話みたいなことのほうが、会議室で行う会議よりもより、社員目線での議論になるはずです。
そういうことができて初めて対話=『お互いの立場を超えた、心が通じるコミュニケーション』ができるのだと思います。
なんどもいいますが、私が決してできているわけではありません。
自戒をこめて、自分がそのような対話ができるよう努力していかなくてはなりません。