契約は、お互いの意思表示が固まったところで成立すると確か民法では教えてくれたと思います。
だから、何か買おう売ろうといった場合に、契約書なんかなくったって、その場で当事者がそう思えば、それでOKなわけです。
しかし、人間は気持ちがうつろっていくものだし、また忘れるようにできているものだから、契約書という書面というか形にあるものを残して、その約したことの裏付けをとっていくわけです。
契約行為でなくとも、言った言わないで、いざこざになること多数です。
だから、メモにして渡したり、メールやFAXなど形あるもので、相手に伝えたいことをしっかりと伝わるようにしていくわけですけれど、やっぱり最終的には、お互いの気持ちが通じ合っているという、形の見えないことこそがもっとも重要なんだと思います。
私自身、メールを多用する人間で、きっと普通の人に比べても相当、メールのやりとりが多いと思います。
ついつい、メールを投げたからOKやろうとしてしまうこともあり、よく皆様方からもお叱りを受けます。
だから、人と人との気持ちのつながりを補完する単なるツールであるということを肝に命じなければと思っています。
昔は、人とのつながりは、本当に目の前にいる人としかつながることができなかったから、必然的にコミュニケーションは深いものにならざるをえませんでした。
でも、いまはゆるいつながりをつくるには、ツイッターでフォローしたり、フェースブックでトモダチ申請でもつくれます。
ただ、それを本当にトモダチと呼んでいいものかどうかはあります。そこにやはり心のしっかりとしたつながりをつくれて初めてトモダチと言えるのだと思います。
トモダチが多い少ないという数も実はあんまり関係がないとも思います。たった一人のトモダチしかいなくても、その人と本当に心のそこからがっちりと何があってもゆるぎないつながりがあれば、それは1000人のゆるいつながりよりも価値があるように思います。
目に見ない絆、それこそがこの情報社会にもっとも必要なことだと思います。