メキシコ紀行3日目パート2!
日本とメキシコの交流の始まりは江戸時代の初期1609年。
メキシコというより当時の統治国であるスペインとの交流です。
統治国であったフィリピン総督がスペインに戻る途中に台風に遭い、現在の千葉県御宿の海岸で座礁難破しました。地元民が救出し、さらに徳川家康が船を寄贈しメキシコに一行を帰還させました。それをきっかけに日本とスペイン・メキシコとの交流が始まったそうですよ。
わが宮城県とメキシコとの交流はそれから遅れること4年、1613年に伊達政宗が遣欧使節団として支倉常長を派遣したことが始まりです。
この人が支倉常長。宮城県民はおなじみの人です。
他の藩に先駆けて仙台藩がスペインとの通商交渉に臨んだわけですが、なぜ東北地方の外様大名にすぎなかった正宗が、常長を外交交渉のために日本人で初めてヨーロッパに派遣したのか諸説あるようです。
仙台藩では出航2年前の1611年に大きな出来事がありました。慶長三陸地震による津波で数千人の死者と壊滅的被害。幕府からの援助を期待できるわけがなく、正宗が活路を見出したのは国外から得られる利益による復興。リスクを伴うことは覚悟のうえでの決断だったのでしょう。つまり、地震による被害が正宗を決断させたという説があるようです。
奇しくもちょうど400年後に宮城県は大震災で被害を被り、5年経った今でも復興半ばという感じです。そういう目で見ると、上の説はあながち間違いではない気がします。正宗の決断力のスゴさを改めて実感します。
メキシコシティーには支倉常長ゆかりの場所がいくつか残っています。
常長一行が宿泊したといわれる建物。
現在は『青いタイルの家』と呼ばれています。
ブエブラという町の特産品である『タラベラ焼』という青いタイルが壁面に貼られています。
常長が宿泊した当時はタイル貼りではなかったそうですが、このように特色ある建造物とすることで後世に残ることができたのかもしれないですね。日本人としては嬉しい限りです。
タラベラ焼は後日の記事に取り上げます。
内部はショップと雰囲気の良いレストランとして利用されています。
中庭と吹き抜けの空間。スペインではパティオと呼ばれる建築様式です。開放感があり気分も開放的になりますよ。
天井にもタイルが貼られエキゾチックな感じがしますね。
階段の踊り場には壁画がドーンと描かれています。
1920~30年代に壁画運動というムーブメントがあり、メキシコ人のアイデンティティを示すのが目的だったようで、現在でもいろんな建物で壁画が見られます。
ここで昼食をいただきました。
料理名は忘れましたが、一般的に肉のグリル料理を「ファフィータ」と称していて、それをトウモロコシの生地を焼いた皮「トルティージャ」に巻いて食べるようです。
これは牛肉ですが鶏・豚も選べます。美味しかったですよ。
そして向かったのは『サンフランシスコ教会』
ここも常長ゆかりの場所で、使節団64名が洗礼を受けた教会なんです。ちなみに常長が洗礼を受けたのはスペインに入国してからでした。
以前にも書いたように、メキシコシティは沼の上に建造されたアステカの都を埋め立ててつくられているので地盤が弱いそうです。そのため町中のいたる所で地盤沈下が進行しているそうで、ここも数メートル沈下しています。
内部はゴージャスです。
ちょんまげ姿の武士たちがこの場所で洗礼を受けたことを想像すると、なんとも不思議な気分になりました。
現在でもメキシコ人たちの信仰のよりどころになっていて、多くの信者が訪れます。
今回は日本とメキシコの最初のつながりを書きました。
最近のテレビでは「海外のこんなところに日本人!?」的な番組がありますが、その時代に常長がメキシコに滞在したことは「ありえへん∞世界」です。
今回、改めて常長を調べてみて、常長の苦難を知ることができました。興味ある方は是非検索してみてくださいね。
3日目がもう一回分あります。
ヨロシクね