ベルリン・フィルハーモニー管弦楽団 大阪公演 ズービン・メータ ブルックナー 交響曲第8番 | 音と言葉と音楽家  ~クラシック音楽コンサート鑑賞記 in 関西~

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クラシック音楽の鑑賞日記や雑記です。
“たまにしか書かないけど日記”というタイトルでしたが、最近毎日のように書いているので変更しました。
敬愛する音楽評論家ロベルト・シューマン、ヴィルヘルム・フルトヴェングラー、吉田秀和の著作や翻訳に因んで名付けています。

ベルリン・フィルハーモニー管弦楽団 来日公演

 

【日時】

2019年11月14日(木) 開演 19:00

 

【会場】

フェスティバルホール (大阪)

 

【演奏】
指揮:ズービン・メータ

管弦楽:ベルリン・フィルハーモニー管弦楽団

(コンサートマスター:樫本大進)

 

【プログラム】

ブルックナー:交響曲 第8番 ハ短調 ノヴァーク版第2稿(1890)

 

 

 

 

 

ベルリン・フィルの来日公演を聴きに行った。

指揮はズービン・メータ。

ブルックナーの交響曲第8番、アンコールなし、1曲勝負のプログラムである。

編成は16型、対向配置。

樫本大進、エマニュエル・パユ、アルブレヒト・マイヤー、ヴェンツェル・フックス、シュテファン・ドール、ギヨーム・ジェル、ヴィーラント・ヴェルツェル等々、最強の布陣だった。

 

 

つい先日来日していたティーレマン&ウィーン・フィルも同じ曲をやっていたが、そちらを見送ってなぜメータ&ベルリン・フィルを選んだか。

それはとりもなおさず、昔ながらの重々しいブルックナーを生で聴きたかったからである。

ティーレマンは古風な演奏スタイルだとよく言われるが、確かに懐古趣味がスパイスのように塗されてはいるけれど、根底のところでは彼の音楽はかなり今風だと思う。

対するメータは、現代では希少となった、重いブルックナーを振る指揮者の一人。

メータもかつては軽快な才気煥発の若手指揮者として楽壇に登場したのだから、隔世の感がある。

考えてみれば、あのカラヤンでさえも、最初はスポーティなセンスが持ち味の若手指揮者として人気を得たのである。

 

 

私は何も、「重厚でなければブルックナーではない」などと考えているわけではない。

むしろ、現時点で私の最も好きなブルックナー交響曲第8番の録音は、

 

●ケント・ナガノ指揮 ベルリン・ドイツ響 2005年ベルリンライヴ盤(DVD

 

であって、これはこの曲全体をすっきりと透明化させ、ブルックナーならではの込み入った対位法的交錯をきれいに浮き彫りにした演奏である。

そういうブルックナー演奏が好きな私だが、それでも3年前に大阪で聴いたウィーン・フィルのブルックナー交響曲第7番の衝撃が忘れられない(その記事はこちら)。

あのときも、指揮はメータだった。

あんな重厚なブルックナー、今後は生では聴けなくなるのだろうと思うと、今回の公演も聴き逃すことができなかった。

 

 

さて、昔ながらのブルックナーと一口に言っても、色々なタイプの演奏がある。

ブルックナー演奏には最低でも4種のタイプが考えられる旨を、以前の記事にも書いたことがある(その記事はこちら)。

昔ながらのブルックナー、と聞いて通常真っ先に思い浮かべるのは、クナッパーツブッシュや朝比奈隆といった、いわゆる「ブルックナー指揮者」たちの演奏だろう。

彼らは、低弦や金管をぶわーっと分厚くも柔らかく、教会に鳴り響くオルガンのように荘厳に響かせることに、ブルックナー演奏の主眼を置いている。

それ以外の要素は、多少犠牲にすることを厭わない。

例えば、あまり幅の広いダイナミックレンジを必要としない(いわばオルガン的)。

弱音部であってもぶわんと大きく音を膨らませ、逆に強音部であっても音のまろやかさを損なうほどの大音量は鳴らさない。

また、テンポの連続性の厳密な制御を望まない。

第1楽章で第2主題を繰り返す直前の部分や、終楽章最後の有名な「ミレド」などで、突然テンポをぐんと落とし、雄大さを表現する。

このタイプのブルックナーは、良く言えば「大自然の悠久の響き」だが、悪く言えば「野暮ったい田舎風の演奏」である。

 

 

しかし、メータのブルックナーは、このタイプではない。

彼の演奏は、カラヤンによく似ている。

フルトヴェングラーやカラヤンは、上記の「ブルックナー指揮者」たちとは別のタイプ。

冒頭の緊張感みなぎる最弱音から、クライマックスの張り裂けるような最強音まで、ダイナミックレンジを幅広く使って音楽のドラマトゥルギーを表現する。

その分、金管の強奏など硬く引き締まった音となり、まろやかな音色や柔らかなホールトーンは犠牲になる。

また、大きな時間軸から見据えてテンポの連続性を厳格に制御し、音楽の弛緩を許さない(いわゆる「推移の達人」)。

その分、音楽は起承転結の中を常に前進する定めとなり、変わることのない悠久の時間は得られない。

このタイプのブルックナーは、良く言えば「壮大な一大叙事詩」だが、宇野功芳に言わせれば「メータのブルックナーなど聴く方が悪い」となる。

私は、このどちらのタイプのブルックナー演奏も好きである。

 

 

83歳のメータは、杖をつきながらよろよろと心配になるほど危なっかしく指揮台に歩いてきた。

しかし、指揮台に座ってしまえばもう矍鑠として、その指揮ぶりは揺るぎない。

いったいどんな手を使ったのか、現代のあのすっきりとリニューアルしたはずのベルリン・フィルから、まるでカラヤンのように往年の重厚きわまりない音を引き出し、冒頭の最弱音からクライマックスの最強音まで音楽の大きな波を作り出し、それでいて決して好々爺的でない引き締まったテンポの一貫性を聴かせてくれた(最後の「ミレド」ももちろんインテンポ)。

さすがにカラヤンほど緊迫感に満ちた弱音は聴かれなかったにせよ、また一部わずかに緩さを感じた部分もあったにせよ(例えば第1楽章展開部クライマックス部分の終わり方など)、現在生で聴けるこのタイプのブルックナー演奏としては、世界最高峰の一つといっても過言ではないだろう。

 

 

また、ベルリン・フィル。

やはり彼らは、世界有数の強力なオーケストラである。

だだっ広いフェスティバルホールの3階席にまで、彼らの音の圧力が十分に届いた。

弦も管も、どのパートもハイレベル。

特に、日本に限らずあらゆる国のオーケストラにおいて弱くなりがちな金管と弦の内声部がうまく、パート間の掛け合いにおいてこれらがスカスカにならず大変に充実して聴こえる。

そして、これまでにもう何度も聴いていまさら感動しまいと思っていたあの終楽章コーダも、いざベルリン・フィルの演奏で(それも生演奏で)聴くと、そのあまりにも豪華に結集したトップアーティストたちによって一斉に奏でられる強力かつ完全な音のパワーに圧倒され、結局感動してしまったのだった。

 

 

これほどの演奏を前にして何も言うことはないのだが、最後に一つだけつまらぬ呟きを。

上にも書いた、3年前に大阪で聴いたメータ指揮ウィーン・フィルの衝撃的なブルックナー交響曲第7番(その記事はこちら)。

あれは、カラヤン指揮ウィーン・フィル盤が実際に眼前に現れたのかと見紛うほどの、圧倒的な風格があった。

メータとウィーン・フィル、荘重なる重鎮どうしの、幸福な邂逅。

あれと比べると、今回のベルリン・フィルは、あくまでも「現代の機能的なスーパーオーケストラから巨匠が引き出した往年の音楽」というか、性質の異なる二者の出会いといった感があった。

これは、ほんのわずかな違いである。

あまりに微妙なので、ここがこうだから、と具体的に説明できないほど。

しかし、決して無視できない違いだと思う。

これは、先日の記事に少し書いた、ハーゲン弦楽四重奏団と他のカルテットとを分ける違いでもあるかもしれない(その記事はこちら)。

 

 

あの3年前のウィーン・フィル、あの梃子でも動かぬ揺るぎない音楽、あの威厳、あの風格!

今のウィーン・フィルは、ひょっとしたらもう変わってきているのかもしれない。

あのときには、まだディーター・フルーリーがいた、エルンスト・オッテンザマーもいた。

壇上はほとんど男性で、みな居丈高に鎮座ましましていた。

対するベルリン・フィルは今回、3~4割が女性だった。

面白いほどの好対照である。

やっぱり、現在のベルリン・フィルは洗練された現代オーケストラ、根っこからラトルやペトレンコのオーケストラになっているのだろう。

世界最先端で音楽を引っ張ってきたベルリン・フィルと、世界最後方で伝統を守ってきたウィーン・フィル。

どちらが優れているというのでなく、どちらも尊い。

 

 


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