兵庫芸術文化センター管弦楽団
第113回定期演奏会
フロール×フアンチ シューマン&ブラームス
【日時】
2019年3月17日(日) 開演 15:00
【演奏】
指揮:クラウス・ペーター・フロール
ピアノ:クレア・フアンチ
管弦楽:兵庫芸術文化センター管弦楽団
(ゲスト・コンサートマスター:近藤薫)
【プログラム】
ベートーヴェン:「エグモント」序曲
シューマン:ピアノ協奏曲 イ短調 op.54
ブラームス:交響曲第1番 ハ短調 op.68
※アンコール(ソリスト)
グルダ:「弾け、ピアノよ、弾け」 より 第6曲 トッカータ
ショパン:ノクターン 第20番 嬰ハ短調 (遺作)
PACオケの定期演奏会を聴きに行った。
好きなピアニスト、クレア・フアンチの弾くシューマンのピアノ協奏曲が聴けるからである。
最初のプログラムは、ベートーヴェンの「エグモント」序曲。
この曲で私の好きな録音は、
●フルトヴェングラー指揮ベルリン・フィル 1933年セッション盤(CD)
あたりである。
今回のフロール&PACオケは、この盤ほど重厚でなく、短めのスタッカート、明るい音色によるさわやかな演奏であり、これはこれで悪くなかった。
次は、シューマンのピアノ協奏曲。
この曲で私の好きな録音は、
●リヒテル(Pf) ロヴィツキ指揮ワルシャワ・フィル 1958年10月セッション盤(NML/Apple Music/CD)
●ポリーニ(Pf) カラヤン指揮ウィーン・フィル 1974年ザルツブルクライヴ盤(Apple Music/CD)
●小林愛実(Pf) 田中祐子 指揮 読響 2017年2月28日川崎ライヴ動画(それについての記事はこちら)
あたりである。
かっちりと端正で力強いリヒテル盤、ポリーニ盤。
また、往年の巨匠コルトーの甘く切ない演奏を現代風にすっきりさせたような、小林愛実盤。
そして、今回のフアンチの演奏は、これらの名盤とはまた違った雰囲気をもつ、それでも全く劣ることのない、最高のシューマンだった。
フアンチの演奏には明るく朗らかなロマンがあって、シューマン、ショパン、メンデルスゾーンといった初期ロマン派の作曲家によく合っている。
今回のシューマンも、忘れがたい演奏だった。
第1楽章、呈示部の第2主題(というよりは長調化した第1主題)が終わり、引き伸ばされた休符のあと、ピアノがソロでアルペッジョを伴った美しいメロディを弾く箇所がある。
この後、順次オーケストラが加わって、コデッタへと突入していく、その箇所のことだが、ここの演奏のあまりにもさわやかで美しい情感が忘れられない。
良いたとえが思い浮かばないが、道端に何気なく咲いた小さな花を慈しむような、大仰でないさらりとした美しさ、とでも言ったらいいか。
第2楽章、冒頭は軽やかなスタッカートというよりも少し滑らかに、ノン・レガートくらいの感じで奏されていたが、ピアノと掛け合うオーケストラのほうも同じくらいノン・レガートにされており、その統一感が何とも好ましい。
途中で出てくる似たような箇所では、一転して軽やかにスタッカートにされていたが、そのときはオーケストラのほうもスタッカートになっており、やはりしっかりと合わせてある。
また、中間部でのチェロの美しさと、それを超えるほどの、そこはかとないロマンを湛えたピアノの美しさ。
終楽章、これも本当に見事な、曲調にぴったり合ったさわやかな演奏だった。
エピソード主題の後に続くアルペッジョ部分も、薄めのペダリングなのに実に滑らかで美しい。
ペダルが薄いぶん各々の音が明瞭に聴こえ、「左手にこんな音が隠れていたのか」といった新たな気づきがたくさんあり、ひたすら続くアルペッジョの連続も全く飽きさせない。
そういった知的な工夫がある一方で、直感的なセンスや情感表現の豊かさの点でも傑出しており、あらゆるパッセージが自然な「歌」になっている。
最高のシューマンだった。
私の席の近くには、すすり泣きしている人もいた。
アンコールは、先日のソロリサイタル(そのときの記事はこちら)でも弾いたグルダのトッカータと、あと彼女得意のショパンのノクターン。
どちらも大変素晴らしく、やっぱり先日聴いたような小ホールよりも、今回のような大ホールのほうが彼女には合っている、彼女は大きなホールで音を響かせることのできるピアニストだ、と感じた。
ただ、シューマンで感動しすぎていた私には、これらのアンコールをゆっくり味わう余裕はあまりなかった。
それは、私個人の問題であって、彼女の演奏そのものに何らかの問題があったわけでは全くない。
休憩をはさんで、最後のプログラムは、ブラームスの交響曲第1番。
この曲で私の好きな録音は、
●フルトヴェングラー指揮ルツェルン祝祭管 1947年8月27日ルツェルンライヴ盤(CD)
●フルトヴェングラー指揮ウィーン・フィル 1947年11月17-20、25日セッション盤(CD)
●フルトヴェングラー指揮ベルリン・フィル 1952年2月10日ベルリンライヴ盤(NML/Apple Music/CD)
●カラヤン指揮ベルリン・フィル 1963年10月11、12日セッション盤(NML/Apple Music/CD)
●カラヤン指揮ベルリン・フィル 1977年10月20日、1978年1月24-27日、2月19日セッション盤(NML/Apple Music/CD)
●カラヤン指揮ベルリン・フィル 1987年1月セッション盤(NML/Apple Music/CD)
あたりである。
フルトヴェングラーとカラヤンばかりではないかと叱られそうだが、この2人の演奏、やはり格別に良い。
今回のフロール&PACオケによる演奏は、フルトヴェングラーやカラヤンのように重々しくはなく、サクサクと歯切れよく進む、ノイエ・ザッハリヒカイト(新即物主義)の流れを汲むものだった。
音色も明るめである。
明るいといっても、フランス人指揮者カンブルランのように透明な音というよりは、ドイツ人らしいずっしりとした音色だし、テンポもややゆったりしている。
各フレーズの終わりを少し長めに伸ばすことが多いのも、ドイツ風の印象を受ける。
それでも、フルトヴェングラーやカラヤンと比べるとずいぶん淡々とした音楽づくりである。
これはこれで、なかなか悪くない(フルトヴェングラーやカラヤンもどきのやたら重苦しい演奏には、私は閉口することが多い)。
ただ、ところどころ、音楽の流れがいまいち良くない箇所もあった。
例えば、第1楽章展開部後半、シンコペーションが執拗に繰り返される中で少しずつ少しずつクレッシェンドされていき、ついには最強音で再現部へと流れ込む箇所。
このシンコペーション部分で、フロールは急にテンポを大きく落とし、そこから再現部へ向けてぐんぐん加速していく。
そのやり方が、少し突飛というか、わざとらしい感じがした。
他に、終楽章の再現部終盤からコーダにかけての部分も同様である。
こうするくらいなら、他の多くの箇所と同じようにサクッとあっさりやってほしかった。
こういった箇所での、長いスパンでの減速および加速については、フルトヴェングラーが大変うまい。
上述のフルトヴェングラーの3種の盤を聴くと、第1楽章展開部でのテンポの加減の仕方がいずれも少しずつ異なるけれど、いずれ劣らず素晴らしく、まるで壮大かつ壮絶な物語の光景が眼前に現れるかのような心持ちがする。
まさに「推移の達人」である。
カラヤンは、フルトヴェングラーほどにはテンポの緩急の差を付けないけれど、彼特有のそこはかとないテンポ調整の妙があって、再現部へ向けてなだれ込むような勢いが、フルトヴェングラーに負けず劣らずよく出ている。
フルトヴェングラーもカラヤンも、テンポやデュナーミクといった音楽の諸要素を気軽には変えず、常に厳しくコントロールしている。
私たちが現在、曲全体のどこにいるのかが明確に分かるように、テンポやデュナーミクをじわりじわりと慎重に動かして、大きなクライマックスを形作っていくのである。
こういった音楽の大きな起承転結が、今回の演奏からももし聴かれたならば、なお良かったことだろう(ただし、こんなことができる指揮者は私の知る限りめったにおらず、仕方のないことかもしれない)。
ともあれ、私としてはフアンチの弾くシューマンのコンチェルトが聴けただけで大満足である。
(画像はこちらのページからお借りしました)
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