石井楓子 東京公演 ベートーヴェン ピアノ・ソナタ第22、29番 チェロ・ソナタ第4番 ほか | 音と言葉と音楽家  ~クラシック音楽コンサート鑑賞記 in 関西~

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クラシック音楽の鑑賞日記や雑記です。
“たまにしか書かないけど日記”というタイトルでしたが、最近毎日のように書いているので変更しました。
敬愛する音楽評論家ロベルト・シューマン、ヴィルヘルム・フルトヴェングラー、吉田秀和の著作や翻訳に因んで名付けています。

『世界へ羽ばたく魅惑のヴィルトゥオーゾシリーズ Vol.19~石井楓子ピアノリサイタル ベートーヴェンの世界 チェリスト 佐藤晴真さんを迎えて』


【日時】

2018年7月21日(土) 開演 14:00 (開場 13:30)

 

【会場】

ベーゼンドルファー東京

 

【演奏】

ピアノ:石井楓子

チェロ:佐藤晴真 *

 

【プログラム】

ベートーヴェン:ピアノ・ソナタ 第22番 ヘ長調 作品54

シューマン:暁の歌 作品133

ベートーヴェン:チェロ・ソナタ 第4番 ハ長調 作品102-1 *

ベートーヴェン:ピアノ・ソナタ 第29番 変ロ長調 作品106 「ハンマークラヴィーア」

 

※アンコール

リゲティ:ピアノのための練習曲集 より 第8曲 「鋼鉄」

 

 

 

 

 

好きなピアニスト、石井楓子のリサイタルを聴きに行った。

彼女の特徴を一言で表すとすると、「今ケンプ」(「今太閤」ならぬ)ということになるのではないだろうか。

ドイツやスイスに留学した彼女は、独墺系の音楽を得意とする。

ただ、一口に独墺系といっても、20世紀前半には名ピアニストたちが綺羅星のごとく輩出し、ケンプだけでなく色々なタイプの巨匠たちが存在した。

例えば、曲をがしっと掴むような力強さをもつヴィルヘルム・バックハウス、ころころと玉を転がすような均整の取れたタッチをもつヴァルター・ギーゼキング、同じく玉を転がすようなタッチだがより自由な詩情をもつエトヴィン・フィッシャー、分厚く温かみのある音をもつアルトゥール・シュナーベル、等々。

そんな中で、なぜケンプなのか。

 

 

ヴィルヘルム・ケンプ、あるいは指揮者フルトヴェングラーのピアノもそうだと思うのだが、彼らの演奏は、まさにドイツ・ロマンを体現するものであった。

ドイツ・ロマンとは、何か。

それは、洗練されたフランスのロマンや、連綿としながらもどこか明るいイタリアのロマン、あるいは泣き叫ぶようなスラヴ系のロマンとも、また違う。

もっと、ほの暗く憂鬱で、内省的なロマンである。

幻想的で、かつ悲観的で、神による救済など信じられず、かといって「世の中そんなものだ」と客観視することもできず、全部背負い込んでしまい、だからこそ絶望の中にも一筋の救済の光を希求してしまうような、そんなロマンである。

こう書くといかにも大仰だけれど、実際にはもっと内省的で、それでもやはりどの瞬間においてもロマン的な感情が溢れているような演奏だと思う。

 

 

そうしたドイツ特有のロマンは、おそらく二度の凄惨な大戦を経て、ドイツ人はあえてこれを捨て去ったのではないだろうか。

現在、独墺系のピアニストは、ブレンデル、レーゼル、ブッフビンダー、オピッツ、グレムザー、ヴラダー、フォークト、フェルナー、シュタットフェルト、ヘルムヘン、ヴンダー、アリス=紗良・オット、ファビアン・ミュラー等、20世紀前半に劣らぬくらいたくさんいるけれど、彼らの演奏からは、分厚く力強い音づくりや均整の取れたタッチを聴くことはできても、ほの暗いドイツ・ロマンを聴くことはないように思われる。

ケンプの後継者と思われる人は、見当たらない(エッシェンバッハやバレンボイムにはもしかしたらその要素があるかもしれないが、少し違うような気もする)。

それが、私は石井楓子の演奏に、ケンプに共通するような表現を感じるのである。

なぜ彼女にそのような表現が可能なのか、全く分からないのだけれど。

同国人が捨て去ったものを、他国人が共感し習得することがありうる、ということなのだろうか。

 

 

今回の演奏会では、まずベートーヴェンのピアノ・ソナタ第22番が奏された。

「熱情」「告別」といった標題のついていない、地味な曲である。

単調な三拍子になりやすい第1楽章が、また味気ない無窮動的な練習曲調になりかねない第2楽章が、彼女が弾くとどれほど歌に溢れることか。

しかもそれは、ショパン的な意味での歌ではもちろんないのである。

 

 

次は、シューマン晩年の名品、「暁の歌」。

この曲は、以前アンデルジェフスキのコンサートで聴いた名演が私には忘れがたいのだけれど、それはかなり遅めのテンポによる、どちらかというとスラヴ的なロマンを湛えた演奏だった。

今回の石井楓子の演奏は、もっと中庸なテンポによる、形式感を重視したものであり、それでいてどのワンフレーズにも細やかな情感が込められていた。

 

 

次の、ベートーヴェンのチェロ・ソナタ第4番、これも本当に素晴らしい演奏だった。

古典的な形式感を崩すことがないにもかかわらず、本当にどの音階も、どの和音も、どのオクターヴも、何というか、実にエモーショナルなのである。

玉を転がすような、無機的なタッチでは全くない(無機的という言葉は、悪い意味だけで使っているのではなく、そういう音も私は好きではあるのだが)。

乾いた音がなく、全てがしっとりとして、歌に満ちている。

そしてその歌は、大変にロマンティックというのではなく、もっと自然体で、かつどこかほの暗い光がある。

ケンプの音に慣れ親しんだ方には、私の言いたいことがお分かりいただけるのではないかと思う。

 

 

休憩を挟んで、最後の曲は、ベートーヴェンのハンマークラヴィーア・ソナタ。

この曲の演奏の素晴らしさについても、これまで書いたのと全く同様である。

ケンプケンプと書いたけれど、もちろんケンプと石井楓子の演奏には違いもたくさんあって、彼女はケンプのようには巨匠的な「崩し」をせず、より現代的な明晰性をもった演奏をするし、またテンポもケンプよりずっと速めである。

しかし、音階や和音の長大な連なり、角ばったスケルツォ、渋い緩徐楽章、アカデミックな晦渋さのあるフーガ、こうしたベートーヴェン特有のとっつきにくい音楽が、彼女が弾くとベートーヴェンの意図はそのままに、隅々まで味わい深い歌に溢れるという点において、やはりケンプと共通しているように思う。

 

 

なお、今回使用されたベーゼンドルファーのピアノは、「Model 250」という92鍵盤のもので、1909年に製造され、かつてはウィーン国立歌劇場で使用されていたという。

今回聴いたところでは、大きな音が出るというよりは、鄙びた味わい深い繊細な音が出るピアノ、といった印象だった。

 

 

 

(画像はこちらのページからお借りしました)

 

 

蛇足だが、普段私は終演後に演奏家の方にご挨拶する勇気もなくそそくさと帰宅するのだけれど、今回は友人と行ったので気が大きくなり、終演後に少しお話しさせていただいた。

不審がられはしないかと心配したが、とても気さくにお話し下さって、感激してしまった。

大変親切なご対応だったので、ミーハーな私は図に乗って写真までお願いしてしまった。

思い出の一枚である。

 

 

 

 


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