今回は演奏会の感想ではなく、別の話題を。
好きな指揮者、ヤニク・ネゼ=セガンの新譜が発売された(Apple Music/CD)。
モーツァルトのオペラ「ティート帝の慈悲」である。
詳細は下記の通り。
以上、HMVのサイトより引用した(引用元のページはこちら)。
モーツァルト最晩年のこのオペラは、あまり人気がない。
確かに、同時期に書かれた魔笛ほどの傑作かと言われるとそうでもないのかもしれないが、それでも随所に珠玉のちりばめられた作品だと思う。
セストのロンド「この今のときだけでも」での、シンプルながら透明な美しさにあふれた和声。
ヴィッテリアのロンド「花の美しいかすがいを編もうと」での、バセットホルンによる(と思われる)味わい深いオブリガート。
いずれも、この時期のモーツァルトにしか書けなかったものである。
この曲の録音としては、私はカンブルラン指揮パリ・オペラ座管のDVDが好きである。
また、今ではもう聴けないけれど、昨年のザルツブルク音楽祭でのクルレンツィス指揮ムジカエテルナによる演奏(ラジオ放送音源)も実に素晴らしかった(その記事はこちら)。
そして、今回のネゼ=セガン指揮ヨーロッパ室内管による新録音は、これらに匹敵する名演だと思う。
音楽の細部の表現への際限ないこだわりという点において、クルレンツィスとネゼ=セガンは指揮者の2大巨頭だと思う、ということはいつかの記事にも書いた。
今回の録音でも、その表現力が存分に発揮されている。
どのメロディ、どのフレーズもきわめて洗練され、表現意欲に満ちていて、大変に美しい。
ただ、ネゼ=セガンの場合、オーケストラと合唱は洗練の極みなのだが、ソリスト歌手については、ある程度各々の自由に任せているような気がする。
クルレンツィスのように、彼の望む生き生きとした表現力、声による演技、音楽上の細かな工夫が、歌手一人一人にまで隈なく浸透している、ということはない。
これは、ネゼ=セガンのほうがおそらく普通であり、クルレンツィスのやり方が異様なのだと思う。
ここまで徹底的にやると、歌手は嫌がってしまうのではないか。
それくらいの、あざといともいえるほどのこだわりである。
ネゼ=セガンのように歌手の自由に任せるやり方は、「カルメン」のような歌手の個性が一番の勝負所であるようなオペラには、よく合っている。
しかし、モーツァルトのように、それぞれの役どころが別々の個性を持ったような雑然としたオペラの場合、クルレンツィスのようなワンマンな(?)やり方が、音楽の方向性をグッと一つにまとめ上げ、驚くほどの鮮やかさと統一感をもって聴き手に迫ってくることとなる。
一人一人の役どころがまさに命を吹き込まれ、生き生きとした躍動感をもってオペラの中を「生きて」おり、それでいて各々がバラバラになってしまうことなく、全体がクルレンツィスによって完成度高く統率されている、といったような。
ネゼ=セガンの振ったモーツァルトのオペラはシリーズ化されいくつも録音されており、もちろんどれも素晴らしいし、歌手はクルレンツィス盤よりもビッグネームが多い。
にもかかわらず、レチタティーヴォやアリアや重唱にクルレンツィス盤ほどのインパクトがないのは、上述のような点に原因があるのかもしれない。
とはいえ、ネゼ=セガンだって十分にすごい。
今回の「ティート帝の慈悲」も、現在入手できるCDの中では最も良質な演奏だと思う。
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