(ヤクブ・フルシャの新譜 バルトーク&コダーイ 管弦楽のための協奏曲) | 音と言葉と音楽家  ~クラシック音楽コンサート鑑賞記 in 関西~

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クラシック音楽の鑑賞日記や雑記です。
“たまにしか書かないけど日記”というタイトルでしたが、最近毎日のように書いているので変更しました。
敬愛する音楽評論家ロベルト・シューマン、ヴィルヘルム・フルトヴェングラー、吉田秀和の著作や翻訳に因んで名付けています。

今回は演奏会の感想でなく、別の話題を。

好きな指揮者、ヤクブ・フルシャの新譜が最近発売された(Apple MusicCD)。

コダーイおよびバルトーク作曲の、「管弦楽のための協奏曲」が収録されたアルバムである。

詳細は下記を参照されたい。

 

 

 

 

 

コダーイとバルトークの傑作、
管弦楽のための協奏曲を
フルシャ&ベルリン放響が録音!


SACDハイブリッド盤。人気・実力を兼ね備えた俊英指揮者のヤクブ・フルシャ。PENTATONEレーベルからリリースが続いておりますが、2017年6月の録音ではベルリン放送交響楽団との共演で、コダーイとバルトークの管弦楽のための協奏曲を収録しました。
フルシャは1981年チェコ生まれ。プラハ芸術アカデミーにて故ビエロフラーヴェクに学び、2004年の卒業以来、チェコの主なオーケストラでのデビューを皮きりにライプツィヒ・ゲヴァントハウス管、ロッテルダム・フィル、バーミンガム市響、クリーヴランド管などに客演。プラハ・フィルハーモニア音楽監督兼首席指揮者、東京都交響楽団のプリンシパル・ゲスト・コンダクターとなり、現在はバンベルク交響楽団の首席指揮者としても注目され、2018年6月、同団との来日公演への期待も高まっております。
コダーイの管弦楽のための協奏曲はシカゴ交響楽団創立50周年記念委嘱作品。コダーイの管弦楽作曲家としての優れた資質と才能を最もよく示す傑作と讃えられています。コダーイはバルトークと同じく、ハンガリーなどの民族音楽を素材として独自の音楽語法を確立しましたが、当作品では民族音楽の要素とバロック時代の管弦楽法や形式との融和が試みられた魅力的な作品です。
一方、バルトークの管弦楽のための協奏曲はクーセヴィツキー夫人の追悼、およびクーセヴィツキー生誕70周年とボストン交響楽団指揮者就任20周年記念のために1943年に作曲されました。バルトークの作品の中でも最も色彩的に派手で理屈抜きに面白いものと言えます。若きフルシャがこれらの傑作を見事に演奏しております。(写真c Pavel Hejny)(輸入元情報)

【収録情報】
● コダーイ:管弦楽のための協奏曲
[16:25]
● バルトーク:管弦楽のための協奏曲[I. 10:28/ II. 6:44/ III. 7:36/ IV. 4:20/ V. 9:52 = 39:00]

ベルリン放送交響楽団
ヤクブ・フルシャ(指揮)

録音時期:2017年6月15-17日
録音場所:ベルリン、ハウス・デス・ルンドフンクス、RBB
録音方式:ステレオ(DSD/セッション)
SACD Hybrid
CD STEREO/ SACD STEREO/ SACD 5.0 SURROUND

 

 

 

 

 

なお、上記はHMVのサイトより引用した(引用元のページはこちら)。

 

 

ところで、バルトークの「管弦楽のための協奏曲」で私が好きな録音は、

 

●ライナー指揮シカゴ響 1955年10月22日セッション盤(Apple MusicCD

 

あたりである。

 

 

私はバルトークを、ベートーヴェン的な作曲家だと考えている。

それに対し、バルトークと同世代の代表的作曲家であるストラヴィンスキーは、モーツァルト的だと思う。

同様に、例えばR.シュトラウスはモーツァルト的、マーラーはベートーヴェン的だと私は感じる。

モーツァルト的な作曲家と、ベートーヴェン的な作曲家とは、どういう意味か。

簡単に言うと、前者は職人的、後者はディレッタント的な作曲家ということである。

職人はきわめて熟練した技術を持つとともに、手の抜き方も心得ており、うまく省略しながら作品を整然と美しく作り上げる。

現実主義的であり、作品と製作者との間には一定の距離がある。

一方、ディレッタントは整然というよりはむしろ作品に色々な要素をごたごたと詰め込み、かつ全く手を抜くことなく隅々までこだわりぬく。

理想主義的であり、作品には自分の人生そのものを注ぎ込む。

このような違いがあるように、私には思われる。

音楽はあくまで美しくなければならないと言ったモーツァルトと、真実にまさる美はないと言ったベートーヴェン。

また、R.シュトラウスは指揮者クレンペラーに、自分はマーラーの音楽の偉大さは分かるけれどもマーラーの苦悩は理解できない、自分にとって作曲は愉悦であるからだ、というようなことを語ったという。

 

 

ベートーヴェン的な作曲家たちの作品を聴いていると、いつも一つの方向性があって、それを目指して常に少しずつ歩みを進めるような、そんな感覚を私は受ける。

その歩みのさなかに色々な展開が待ち受けていて、それらを経験しながらゴールに向かって一歩一歩階段を昇っていく。

そしてその途中には、必ずといっていいほど、いわゆるクライマックスが存在する。

彼らの音楽においては、ドラマ性というか、「起承転結」性とでもいった要素が全体を強く支配している。

バルトークも例外ではなく、「青ひげ公の城」や「中国の不思議な役人」はその典型である(バルトークは「中国の不思議な役人」の筋書きを大変気に入っており、その理由を「常に高まっていく段階があるから」と語ったという)。

また、弦楽四重奏曲だとか、あるいは「戸外にて」のようなピアノ曲集にも同様のことがあてはまるように思う。

このようなバルトークの「ベートーヴェン的」な面を、「管弦楽のための協奏曲」において最も強く出しているのが、上記ライナー&シカゴ響盤ではないだろうか。

この演奏のまっすぐな力強さ、殊に第1楽章のクライマックスでの畳みかけるようなシカゴ響ブラスセクションの迫力は、他盤からは聴かれないものである。

また、ライナーの演奏には引き締まった中にもロマン的豊潤さがあって、それが新ロマン主義的なこの曲によく合っている。

 

 

前置きが長くなった。

今回のフルシャ&ベルリン放送響盤は、上記ライナー盤とは対照的に、バルトークの「ベートーヴェン的」な要素を前面に出さない。

もっと柔らかで、自然体の演奏である。

ハンガリーの森の空気の清冽ささえ感じられるような、大変に美しい演奏。

それでいて、素朴で垢抜けないということは全くなく、きわめて洗練された完成度の高い演奏となっている。

このバランス感覚は、いったいどうしたら身につくのだろうか。

まだ若いフルシャだが、ほとんど「アバドの後継者」と断定したくなるほどである。

とまれ、私のこれまでイメージしていたバルトーク観とは違う新たな側面を知らしめてくれた、ライナー盤に並ぶといってもいい名盤だと思う。

 

 

最後になったが、コダーイの「管弦楽のための協奏曲」。

私はあまり聴き慣れない曲だけれども、こちらも大変美しい名演だった。

上記バルトークと似たアプローチの演奏だが、フルシャの柔らかな音楽性との相性としては、バルトーク以上といってもいいかもしれない。

 

 


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