読売日本交響楽団
第577回定期演奏会
【日時】
2018年4月20日(金) 開演 19:00
【会場】
サントリーホール (東京)
【演奏】
指揮:シルヴァン・カンブルラン
管弦楽:読売日本交響楽団
(コンサートマスター:小森谷巧)
【プログラム】
アイヴズ:ニューイングランドの3つの場所
1. ボストン・コモンのセント=ゴードンズ
2. コネティカット州レディングのパトナム将軍の兵営
3. ストックブリッジのフーサトニック川
マーラー:交響曲 第9番 ニ長調
読響の定期演奏会を聴きに行った。
指揮は、もちろんシルヴァン・カンブルラン。
本来、金曜日に東京のコンサートに行くのは私には無理なのだが、どうにか都合をつけて行ってきた。
マーラーの第5番でカンブルランに目覚め(そのときの記事はこちら)、マーラーの第1番でカンブルランの現代最高の指揮者の一人たることを確信した私としては(そのときの記事はこちら)、今回のマーラーの第9番を聴き逃すわけにはどうしてもいかなかったのである。
そして、何という演奏会だったことだろう!
前半のアイヴズ「ニューイングランドの3つの場所」、これからして実に素晴らしく、第2曲の“崩れゆくマーチ”をはじめ、マーラーの第9番と同時期に書かれたこの曲の「20世紀初頭」ならではの退廃性が、美しい透明感をもって表現されていた。
しかし、この名演ですら、後半のマーラーを聴いた後の今となっては、印象が霞んでしまったほど。
マーラーの交響曲第9番。
必ずしもマーラーの良い聴き手とはいえない私でさえ、この曲が世紀の傑作であることについては全面的に認めざるを得ない。
名盤も多いけれど、なかでも私が特に好きなのは
●ワルター指揮ウィーン・フィル 1938年1月16日ウィーンライヴ盤(NML/Apple Music/CD)
●ブーレーズ指揮シカゴ響 1995年12月セッション盤(NML/Apple Music/CD)
●アバド指揮ベルリン・フィル 1999年9月ベルリンライヴ盤(NML/Apple Music/CD)
あたりである。
上述のマーラー第1番の記事にも書いたことだが、マーラーの2人の弟子のうち、指揮者ワルターはマーラーの音楽の「情」の面を、指揮者クレンペラーはマーラーの音楽の「知」の面を重視した演奏解釈で知られた。
そして、ワルターのやり方はバーンスタインらへ、クレンペラーのやり方はブーレーズらへと受け継がれていったのではないだろうか。
また、アバドはこのどちらのやり方とも違った、独自の「軽み」の境地に至ったものと私は考えている。
今回の、カンブルランの演奏はどうだったか。
普段の彼の他曲の演奏同様、ブーレーズと同じ方向性の解釈であったように思われる。
後期マーラー独自の複雑に絡み合った対位法的な網の目をひとつひとつ精確に解きほどき、それぞれの楽器同士のハーモニーを美しく浮かび上がらせる。
しかし、そうして聴こえてくる音楽の、なんと感動的だったことか!
知的で冷静なのだが、それでいて、知の勝った無機質な演奏にはなっていない。
マーラーならではの濃密なロマン性も、決して損なわれていないのである(ときにポルタメントさえ聴かれる)。
この絶妙なバランスは、一体どうしたら実現可能なのだろうか。
第1楽章からして、その清々しい美しさを何といったらいいか。
第2楽章、「異質性」のよく表れたレントラー。
第3楽章、決して荒々しくならないが力強いロンド・ブルレスケ。
その中間部では、トランペットにより回音音型がクローズアップされるのだが(この音型は次の終楽章全体を貫くことになる)、このトランペットの演奏はあっさりしているにもかかわらず、何ともいえず凛として美しく、あたかも神の啓示のようだった(それを伴奏する高弦の刻みは、神に差す後光のよう)。
そして、終楽章。
これはもう、ひたすら静かで美しい、別世界の音楽であった。
休符による静寂さえも、美しい。
言葉では表現できない、とてつもない世界。
黄金の19世紀、あんなにも隆盛を誇った愛すべき西洋音楽、西洋文化が、20世紀になって音を立てて崩れていく―そのことを一身に体現し、苦しみ抜いたマーラーが、最後にはそれを弔い、浄化させる。
バーンスタインのようにとことん耽溺するのとはまた違った、じたばたしない「おくりびと」のような静かさが、今回の演奏にはあった。
カンブルランがマーラーの交響曲第9番を指揮したのは、今回が初めてだった、という噂がある。
SWR響時代、マーラーは専らギーレンが振っていたようなので、この噂は正しいかもしれない。
そして、今回の読響定期公演は、2日や3日連日の公演ではなく、1日だけしかなかった。
これは、結果的に相応しいことだったと私は思う。
この驚異的な演奏を再び繰り返すなんて、さすがのカンブルランでも現実的でない気がする。
読響の団員の皆さんも、精根尽き果てたのではないだろうか。
さらに、今後カンブルランがいつこの曲を取り上げるとも知れないことを考えると、彼の一世一代の最高の名演だったのかもしれない。
そう思うと、一期一会の奇跡的な出来事に思いもかけず遭遇してしまったかような、とても不思議な心持ちになるのだった。
と文章に書くと我ながら大袈裟で笑ってしまうけれど、それでも本当にそんなふうに感じている。
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