読売日本交響楽団 第196回土曜マチネー カンブルラン マーラー 交響曲第1番 ほか | 音と言葉と音楽家  ~クラシック音楽コンサート鑑賞記 in 関西~

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クラシック音楽の鑑賞日記や雑記です。
“たまにしか書かないけど日記”というタイトルでしたが、最近毎日のように書いているので変更しました。
敬愛する音楽評論家ロベルト・シューマン、ヴィルヘルム・フルトヴェングラー、吉田秀和の著作や翻訳に因んで名付けています。

読売日本交響楽団

第196回土曜マチネーシリーズ

 

【日時】

2017年4月8日(土) 14:00 開演

【会場】

東京芸術劇場

 

【演奏】

指揮:シルヴァン・カンブルラン

管弦楽:読売日本交響楽団

(コンサートマスター:荻原尚子)

 

【プログラム】

ハイドン:交響曲 第103番 変ホ長調「太鼓連打」
マーラー:交響曲 第1番 ニ長調「巨人」

 

 

 

 

 

名指揮者ピエール・ブーレーズの後継者と目される(私が勝手に目しているのだが)、シルヴァン・カンブルラン。

読響の常任指揮者である彼だが、その任期はあと2年くらいで終わってしまう。

次もその任期が更新されるとは限らず、彼の演奏会には今のうちにできるだけ行っておきたいと思う。

 

今回は、私が前回聴いたのと同じで、マーラーを主体としたプログラムである(前回の記事はこちら)。

前回は交響曲第5番だったが、今回は第1番。

前半プログラムは、ハイドンの交響曲第103番「太鼓連打」。

これからして、もう実に素晴らしい。

弦楽器の透明な美しさ、管楽器の美しい際立たせ方、これらの楽器同士の絶妙なハーモニーの引き出し方、そして誇張を排した息の長いフレージング―こういったカンブルランならではの美質が、遺憾なく発揮されていた。

最近流行りの、ピリオド奏法による演奏とも、また違う。

ピリオド奏法のような細く硬く打撃的な演奏とは異なり、もっとふくよかで肉厚な、モダン楽器ならではの音である。

しかし、その音は弦も管も非常に柔らかく透明で、楽器間の響きのバランスに細心の注意が払われている。

いわゆる「対向配置」による響きの効果も、とりわけ美しく発揮されていた。

私は、この「太鼓連打」という曲は普段それほど聴いていないのだけれども、そのためもあってか、この曲においてこれほどまでに美しく奏された演奏を、他に思い浮かべることができない。

なお、コンサートマスター(ミストレス)の荻原尚子の演奏も、美しく安定感があり大変良かった。

 

メイン・プログラムは、前述のように、マーラーの交響曲第1番。

この曲について、私はワルター/コロンビア響盤(Apple Music)、ブーレーズ/シカゴ響盤(Apple Music)、ネゼ=セガン/バイエルン放送響盤(NMLApple Music)あたりを好んでよく聴いている。

今回のカンブルラン/読響による演奏は、このうち、やはりブーレーズ盤に近いものであった。

この交響曲第1番は、マーラーが20歳代のときに作曲され、30歳代のときに改訂された、いわば若書きの曲である。

若いマーラーらしく、さわやかさとともに絶叫、咆哮といった悲愴がかった音が聴かれ、それが魅力でもあるのだが、聴いていていささかやりきれなくなることもある。

しかし、カンブルランの手にかかると、そのような悲愴趣味は極力そぎ落とされ、マーラーの別の側面である、純器楽的な特質―緻密な対位法的書法や、響きへの鋭敏な感性といった―が前面に押し出される。

いわゆる「大人の音楽」といった印象になるのである。

これでは大人すぎる、もっと若々しい推進力や、魂の叫びがほしい、という意見も当然あるだろう。

しかし、ここまで洗練された演奏を前にしては、そういった要素をこの演奏に求める気持ちは起きなくなる。

 

洗練と書いたが、このマーラーはさきほどのハイドンと比べると、少し瑕もあった。

上記のブーレーズ/シカゴ響盤にみられるほどの高い完成度は、聴かれなかった。

冒頭の弦によるフラジョレット奏法はどことなく不安定だったし、管も読響にしては事故が多かった(特にホルンやトランペット)。

しかし、そのようなことを差し引いても、大変な名演であった。

第1楽章の序奏は、霧のかかった森の中に入るような神秘的な音楽だが、ここの響きの扱いは本当に美しかった。

最弱音で奏される、クラリネットによる躍動感のあるパッセージ、ここの細やかな美しさ!

ときどき鳥の鳴き声の混じるような、フルートやオーボエによるフレーズの、取り立ててニュアンスを込めるわけではないにもかかわらず(そういった誇張はできるだけ排されている)きわめてクリアで印象的な際立たせ方。

そして、ホルンによるきわめて美しいアンサンブル。

ミスはあっても、実に清澄な響きで、聴き手の心を揺さぶらずにはおかない。

全体に、曖昧模糊となりやすいこの序奏が、なんとクリアに美しく響くことか。

そして徐々に霧は晴れ、主部に入る。

低弦により奏され、ヴァイオリンへと受け継がれていく主要主題、このあまりの透明な美しさ、柔らかい響きに、耳が洗われるようである。

この後、音楽はどんどん森の奥深くへと進んでいく。

そして次第に盛り上がり、その頂点で、森を抜けてとても広大な、開けた場所に出たかのような、大きなクライマックスに達する。

ここでカンブルランは、クライマックスにふさわしく十分に大きく盛り上げるのだが、その響きは決して荒っぽいものにはならず、あくまで各声部が整理され洗練されていて、もともとの清澄さを少しも失わないのである。

この後は再現部のようなコーダ(結尾部)のような、短い部分を経て第1楽章は終わりを告げるのだが、この部分でも彼はぐんぐん加速するようなことはせず、あくまで「大人」な分別を失わずに、余裕を持って楽章を終える。

 

第2楽章の歯切れの良いスケルツォも、誇張のない適度な躍動感と、透明感をもっていた。

そして中間部のレントラーの、美しいこと!

ニュアンスを込めすぎない、息の長いフレーズ感が、オーボエにおいても低弦においても、メロディ本来の美しさをごく自然に際立たせることとなる。

第3楽章も、各声部がそれぞれ独自の動きをして錯綜するような音楽を、うまく整理してすっきりとした響きを実現していた。

そして、第4楽章。

これこそは、若きマーラー特有の悲愴がかった(そしてのちには勝利の)叫びがこれでもかと立て続けに出てくる音楽である。

しかし、カンブルランの場合は、比較的ゆったりとしたテンポを採り、強音でも全く騒々しくなることなく(耳をつんざくような金管の咆哮をこれでもかとばかりに畳みかける演奏の多いこと)、各々の楽器の響きがよく整理され、最強音の瞬間でさえマーラーならではの緻密な書法を味わうことができるのである。

そう、絶叫に惑わされてはいけない、マーラーは横の線(対位法的書法)でも縦の線(和声進行)でも、当代一流の音楽を書く能力を持っていた人だった。

彼の悲愴趣味、巨大趣味の毒気に当てられて、当初その音楽を嫌っていたシェーンベルクが、後年マーラーの影響を受けたばかりでなく、「私はマーラーの徒」とまで自称するようになったのも、その充実した書法に気づいたからではなかったろうか。

もちろん、マーラーの悲愴趣味は、きっとシェーンベルクはあまり好きになれなかっただろうけれども、マーラー独自の苦悩に満ちた人生観と相まって、彼の音楽になくてはならない一部分を形成していたことは、確かだと思う(この要素なしには、あの「大地の歌」や交響曲第9番といった晩年の傑作は、生まれ得なかっただろう)。

しかし、逆に言うと、この要素が全てというわけでもない。

マーラーの弟子であるブルーノ・ワルターから、バーンスタインらへと受け継がれていった流れが、この要素―悲愴がかった、苦悩に満ちた、世紀末的、精神分裂的な側面―を深めていったとすると、もう一人の弟子であるオットー・クレンペラーらによる別の流れは、マーラーの別の要素である純器楽的な、対位法的・和声的書法に焦点を当てた、といえるのではないだろうか。

定評のあるブーレーズのマーラーも、(間接的にかもしれないが)後者の流れを汲んでいると思われる。

カンブルランもまたその一人だと私は思っているし、そう考えると彼のマーラーへのアプローチはきわめて独特なようでいて、実は決して異端的ではなく、むしろマーラー本人から脈々と受け継がれた正統な流れの一つに与していると言っても良いのではないだろうか。

 

来週には、カンブルランは別のプログラム(メシアンの「忘れられた捧げもの」、ドビュッシーの「聖セバスティアンの殉教」交響的断章、バルトークの歌劇「青ひげ公の城」)による演奏会が予定されている。

大変な名演になることが予想され(ドビュッシーについては断章でなく全曲の録音がSWR交響楽団となされており(NML)、やはり名演となっている)、ぜひ聴きに行きたいのだが、行けないのが残念である。

私は、ブーレーズの生演奏をついに聴くことができなかった。

一度くらい聴いてみたかった、と今でも悔やんでいるが、その気持ちをかなりのところまで補ってくれるのが、私にとってはカンブルランなのである。

それは、アバドの生演奏を聴けなかった後悔を、フルシャが補ってくれるのに、近いものがある。

今年の秋に予定されている、カンブルランによるメシアンの「アッシジの聖フランチェスコ」はもちろん楽しみにしているし、いつか、彼の演奏会で「パルジファル」を、「ペレアスとメリザンド」を、「ペネロープ」を、「モーゼとアロン」を、そして「ヴォツェック」や「ルル」を聴いてみたい、と夢は膨らむ一方である。

 

 


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