(ピリスの引退公演には行けなかったけれど) | 音と言葉と音楽家  ~クラシック音楽コンサート鑑賞記 in 関西~

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クラシック音楽の鑑賞日記や雑記です。
“たまにしか書かないけど日記”というタイトルでしたが、最近毎日のように書いているので変更しました。
敬愛する音楽評論家ロベルト・シューマン、ヴィルヘルム・フルトヴェングラー、吉田秀和の著作や翻訳に因んで名付けています。

今回は演奏会の感想ではなく、別の話題を。

現在、好きなピアニストのマリア・ジョアン・ピリス(ピレシュとも表記する)が来日している。

彼女は引退を宣言しており、今回が彼女の最後の来日公演になることが決まっている。

昨日はサントリーホールで、モーツァルトのピアノ・ソナタ第12、13番と、シューベルトの4つの即興曲D935、そしてアンコールでシューベルトのピアノ曲D946-2が演奏されたようである。

これが、彼女の日本におけるソロリサイタルとしては最後のものだったとのこと。

何とも、感慨深いものがある。

 

 

モーツァルト弾きとして知られるピリスだが、私も彼女のモーツァルトが大好きで、匹敵する演奏というとアンスネスのものくらいしか思いつかない。

往年の女流モーツァルト弾きたち(クララ・ハスキル、リリー・クラウス、イングリット・ヘブラーら)の演奏がいずれも柔らかく抒情的なものだったのに対し、ピリスはより強い芯の通った、タッチの安定した、しっかりとしたモーツァルトを弾くように私には感じられる。

また、ピリスと同世代の女流モーツァルト弾きに内田光子がいるが、彼女の演奏もしっかりしているけれど、それともまた少し違う。

内田光子にあるような一種の暗さ、神経質なところがピリスにはなく、その代わりにもっとからっとした明るさ、活気のようなものがあるように思う。

それこそ、彼女の母国ポルトガルの、強く眩しい陽の光を思わせるような。

この明るさ、じめじめしない乾いた推進力、これこそが彼女の演奏をして理想のモーツァルトたらしめている、と私は考えている(ときにあまりに情熱的に過ぎるように感じることはあるにせよ)。

彼女の弾いたモーツァルトのピアノ協奏曲やピアノ・ソナタの録音は、いずれもかけがえのないものである。

 

 

また、ピリスの弾くシューベルト。

これも、ポール・ルイスやティル・フェルナーのそれと並んで、私の中では特別なものとなっている。

彼女のシューベルトは、ルイスやフェルナーによる端正な演奏と比べるとやはりやや情熱的、感覚的で、「シューベルトはもっと内省的であるべきではないか」と違和感を覚える場合もないではない。

しかしその分、より直接的に、エモーショナルに聴き手の心をぐっとつかむ瞬間がある。

例えば、即興曲D899-1で、長調のエピソード主題が歌われ、感情が高まっていく箇所での、高音部の呼応の比類ない美しさ。

また、ピアノ・ソナタ第18番「幻想」の終楽章での、躍動感あふれるスタッカート。

細部の精密さでは他盤に一歩譲るとしても、こうした生き生きとした感情表現は、ちょっと他では聴かれないほどのものだと思う。

そして、今回の引退公演のアンコールで弾かれたという、ピアノ曲D946-2。

これはおそらく彼女の得意曲なのだろう、私が2000年頃に倉敷かどこかで彼女のリサイタルを聴いた際にも(ベートーヴェンの「月光」ソナタなどを弾いたはず)、アンコールでこの曲が奏された。

これがまた本当に素晴らしくて、このとき私はブレンデルやら誰やら、この曲の録音を色々探してみたのだけれど、このときのピリスほどすっと心に残る演奏は見つけられなかった。

実は彼女によるこの曲の録音があって、当時の私は知らなかったのだが、のちに聴いてみるとやはり素晴らしく、これを超える盤には私は今でも巡り合っていない。

 

 

そんなピリスのモーツァルトとシューベルト、今回が最後とのことで、ぜひ聴きたかったけれど、聴けなかったものは仕方がない。

彼女のこれまでの素晴らしい演奏と、残された名盤の数々、そしてその裏にあったであろう多大なる努力に、感謝するのみである。

 

 


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