びわ湖ホールプロデュースオペラ
ワーグナー作曲 『ワルキューレ』(ドイツ語上演・日本語字幕付) <新制作>
【日時】
2018年3月4日(日) 開演 14:00 (開場 13:15)
【会場】
びわ湖ホール 大ホール (滋賀)
【スタッフ&キャスト】
指揮:沼尻竜典 (びわ湖ホール芸術監督)
演出:ミヒャエル・ハンペ
美術・衣裳:ヘニング・フォン・ギールケ
照明:齋藤茂男
音響:小野隆浩 (びわ湖ホール)
演出補:伊香修吾
ジークムント:望月哲也
フンディング:山下浩司
ヴォータン:青山貴
ジークリンデ:田崎尚美
ブリュンヒルデ:池田香織
フリッカ:中島郁子
ゲルヒルデ:基村昌代*
オルトリンデ:小川里美
ワルトラウテ:澤村翔子
シュヴェルトライテ:小林昌代
ヘルムヴィーゲ:岩川亮子*
ジークルーネ:小野和歌子
グリムゲルデ:森季子*
ロスワイセ:平舘直子
* びわ湖ホール声楽アンサンブル・ソロ登録メンバー
管弦楽:京都市交響楽団
(コンサートマスター:ハルトムート・シル)
【プログラム】
ヴァーグナー:「ヴァルキューレ」
びわ湖ホールのヴァーグナー「ニーベルングの指環」シリーズは、今年は「ヴァルキューレ」。
この曲は、ヴァーグナーの中でも人気の高い作品の一つであり、昔からたくさんの録音がなされていて、名盤も少なくない。
中でも、私の好きな録音は
●フルトヴェングラー指揮ウィーン・フィル 1954年セッション盤(CD)
●ブーレーズ指揮バイロイト祝祭管 1980年6~7月バイロイトライヴ盤(DVD。音のみならNML/Apple Music)
●ヤング指揮ハンブルク州立歌劇場管 2008年3月12~19日ハンブルクライヴ盤(NML/Apple Music/CD)
あたりである。
ドラマティックで悲劇的な一大叙事詩を思わせるフルトヴェングラー盤、ヴァーグナーの天才的な作曲技法を浮き彫りにしたブーレーズ盤、現代的に洗練され完成度の高いヤング盤。
それぞれ音楽の方向性は異なっているけれど、ヴァーグナーにふさわしい、スケールの大きな演奏という点では、三者は共通している。
今回は、沼尻竜典の指揮、京都市交響楽団による演奏。
私は、沼尻竜典の演奏をこれまでに何度か聴いて、彼がブーレーズ風の大変クリアな音楽づくりをする、ということに最近気づいてきた(そのことについての記事はこちら)。
彼ならば、上記ブーレーズ盤のような素晴らしい「ヴァルキューレ」を聴かせてくれるのではないか。
これまで、ウィーン国立歌劇場(そのときの記事はこちら)、バイエルン国立歌劇場(そのときの記事はこちら)といった、世界屈指の団体の演奏で「ヴァルキューレ」を聴いたにもかかわらず、感動できなかった贅沢者の私は、今回の沼尻竜典の演奏に期待をかけた。
聴いてみると、いやはや、大変素晴らしかった!
ブーレーズが、彼方の世界から降りてきて指揮しているかのよう、というのはさすがに言いすぎか。
確かに、ぼてっとしている箇所はあったし、カンブルランやナガノであればもっとすごかったのかもしれない。
それに、オーケストラだって、京響はとてもよくがんばっていたけれど、それでも最高レベルとはいえなかった(特にチェロの高音域が不安定)。
それでも、私には十分だった。
ウィーン、バイエルン国立管でさえ感動できなかった私は、もう「ヴァルキューレ」の生演奏で感動することはないのだろうかとも内心思っていたのだが、見事にくつがえされた。
ウィーンの指揮はアダム・フィッシャー、バイエルンの指揮はキリル・ペトレンコだったが、前者は音楽の方向性があまり見えず、ぼんやりした中庸な演奏になってしまっていたし、後者は細部までこだわった大変繊細な演奏だったものの、そのぶん音楽のスケールは小さくなってしまっていた。
沼尻竜典は、彼らとは一味違った。
といっても、一般的なヴァーグナーのイメージのように、ドイツ風に低弦をずっしり強調したり、大音響で聴き手を圧倒したり、といったことは彼はしない。
むしろそういった要素をおそらく意識的に避け、各楽器の音の分離と調和を大事にした、透明で清々しい演奏をする。
なおかつ、音楽を長い長いフレーズとしてとらえ、局所の表現の繊細さに拘泥しない、いやむしろそういった「誇張」を許さない。
ここのフレーズにとりわけニュアンスを込めるとか、あそこの箇所を急に速くして緊張感を演出するとか、そういった局所的な「工夫」を嫌うのである。
その結果、透明度の高い純器楽的な演奏でありながらも、音楽がちまちましてしまうことなく、きわめて大きな視野でドラマを構築することが可能となる。
ところで、ヴァーグナーの演奏において、歌手はたいていの場合「誰々は丁寧だけれど、誰々は荒っぽい」というように、音楽性にムラがあることが多いように思う。
しかし、今回は誰も荒れてしまうことなく(全ての瞬間でというわけではないが)、全員が一つ一つの音を丁寧に歌って、沼尻竜典のつくる音楽の中にうまく溶け込んでいた。
ブーレーズ盤のホフマンやアルトマイヤーほどとはいかないにしても、各人の丁寧な歌い方はブーレーズ盤に共通したものを感じた。
これは沼尻竜典の指示によるものなのだろうか、あるいは彼のつくる音楽に歌手たちが自然と呼応したのだろうか。
また、演出については、私はあまりこだわらないのだけれど、オーソドックスながらセンスがあり、演奏にもよく合ったものだったのではないだろうか。
扉がばたんと開いて春が入ってくるシーンなど、大変印象的だった。
その後、急に家が消えて森に変わるのはちょっと笑ったし、その木の葉の揺れ方も「いかにもプロジェクションマッピング的」だったけれど、それほど気にならなかった。
演奏が素晴らしいと演出も感動的に見え、些細なことは気にならなくなる。
ヴァーグナーの楽劇のような、何百人もの人が携わる大規模な総合芸術であっても、その演奏の出来を決めるのは、9割方は指揮者なのかもしれない。
少なくとも私にとってはそうである、と今回強く感じた。
指揮者というのは、大変な職業である。
それにしても、ヴァーグナーという人の天才的なこと!
彼の描いたのは、天上から地底にわたる壮大な伝説であり、なおかつ、所有や契約といった資本主義社会のもつ不条理への警鐘でもある。
男女の強い愛の絆の物語であり、なおかつ、その絆の強さを初めて知った一人の女性の、精神的自立(いわゆる親離れ)の物語でもある。
そして、何といってもその音楽!
縦横無尽に張り巡らされ、物語の進行と共に発展していくライトモティーフの数々は、ベートーヴェンの動機労作にも匹敵する。
そして、革新的かつ熟練をきわめた和声進行。
こんな作品が、シューマンもまだ生きていた1856年に書かれたのである。
そして、この1850年代の数年間に、ヴァーグナーは「ラインの黄金」、「ヴァルキューレ」、「ジークフリート」(第2幕まで)、そして「トリスタンとイゾルデ」と立て続けに傑作を生みだし、モティーフや和声の扱いを極限まで発展させた。
それらはあまりに圧倒的であり、ドビュッシーやラヴェル、あるいはマーラーやR.シュトラウスによって音楽の次の行き先が示されるまで、およそ半世紀という長い期間を要するほどだった。
「ヴァルキューレ」が画期的な傑作であることを、沼尻竜典は演奏を通じて聴き手に存分に知らしめてくれた。
第1幕前奏曲、嵐の中できらめく雷神ドンナーの動機。
第1幕第3場、絶望するジークムントの壮絶な音楽の後に現れる、一条の希望の光が差し込むノートゥングの動機。
こういったところの音楽が、沼尻竜典の手になると、本当にまばゆい光が現れるかのような、まことに透明で、かつ鮮烈きわまりない、感動的なものとなる。
同じく第3場、「冬の嵐は過ぎ去り」の直前、美しいエンハーモニック転調に導かれ現れる、低弦の息の長い前奏、ここの演奏も実に清廉で忘れがたい。
そう、彼のクリアな演奏は、本当に、まるで透かし絵のようにあらゆる動機を美しく浮き彫りにするので、聴き手はヴァーグナーの書法の緻密さに目もくらまんばかりである。
そして、局所の突出を嫌う彼の長いフレージング、大きな視野での音楽の捉え方によって、第1幕や第2幕の幕切れ、あるいは第3幕のヴォータン登場のシーンでは、大きな迫力が創出される(派手な大音響とは無縁の演奏にもかかわらず)。
焦らず騒がず、大きな流れで持っていくスケールの大きなクライマックス、これぞヴァーグナーの醍醐味ではないだろうか。
日本でヴァーグナーを聴くならまずは沼尻竜典、目下のところ私の中ではそのような結論に落ち着いた。
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