(クリスタル系指揮者) | 音と言葉と音楽家  ~クラシック音楽コンサート鑑賞記 in 関西~

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クラシック音楽の鑑賞日記や雑記です。
“たまにしか書かないけど日記”というタイトルでしたが、最近毎日のように書いているので変更しました。
敬愛する音楽評論家ロベルト・シューマン、ヴィルヘルム・フルトヴェングラー、吉田秀和の著作や翻訳に因んで名付けています。

今回は演奏会の感想ではなく、別の話題を。

最近、アンドリス・ネルソンス指揮ボストン交響楽団が来日しているらしい。

色々な曲を演奏しているようだが、つい最近のものはハイドンの「太鼓連打」とマーラーの「巨人」のようである。

私も聴いてみたかった。

というわけで、代わりと言ってはナンだが、今年の春に聴いたカンブルラン指揮読響の演奏会(そのときの記事はこちら)のラジオ放送音源をエアチェックしたものを聴いた。

この演奏会は、奇しくも「太鼓連打」と「巨人」という、上記ネルソンスのものと全く同じプログラムだったのである。

大変に素晴らしい演奏会で、こうして放送音源をいつでも聴けるのも感謝感謝である(余談だが、この放送音源ではホルンのひっくり返りなど大きめのミスは修正されている。ゲネプロや公演2日目の音源を使用したのかもしれない。最近ではこういった編集が簡単にできてしまうということか)。

 

 

同じプログラムとはいえ、ネルソンスとカンブルランとでは、おそらく相当にタイプの違った演奏だっただろう。

カンブルランの演奏は、各パートをくっきりと浮かび上がらせて、かつパート間の音の調和に細心の注意を払う。

たとえ不協和音であっても、「美しく調和した」不協和音になるのである。

そして、往年の指揮者たち(特に独墺系)のように、フレーズをぐっと膨らませてずっしりとした音を作り出すことは、しない。

あるいは、近年の多くの若手指揮者たちのように、部分的に細部の繊細かつ個性的な表現にこだわることも、しない。

もっとフレーズを長いスパンでとらえており、局所局所の表現の起伏を強調せず、最小限に抑えるのである。

長く伸びるフレージング、といったらいいか。

これらの特徴によって、まるでクリスタルのような、実に透明感のある音楽が実現される。

 

 

カンブルランのこうした特徴と共通した性質をもつ指揮者としては、私の知る限りではオットー・クレンペラーが最初の人だが、彼より以前にこのような性質をもった指揮者はいたのだろうか?

また、ピエール・ブーレーズも同様の性質をもつ指揮者だと思う。

カンブルランより後の世代では、それぞれ音楽性は少しずつ異なっているけれども、ケント・ナガノやクリスティアン・アルミンクは同系統の指揮者だと私は思っている。

ナガノ(DVD)やアルミンク(CD)の「ローエングリン」第一幕前奏曲を、それこそネルソンスのそれ(ブルーレイDVD)と比べてみると、よく分かる。

ナガノやアルミンクでは、本当に音が透明で、清水のように澄んでいる。

ネルソンスでは、逆に何らかの色合いが感じられる。

こうした違いは、リハーサルのやり方のどのような違いによって、現れてくるものなのだろうか。

ヴィブラートのかけ方の指示?

フレージングのしかたの指示?

それとも、楽器間の音量のバランスの指示?

私には、いつも不思議なのである。

 

 

誇張を排した、クリアな音楽づくりをする、上記の指揮者たち。

私は、彼らの指揮が大変好きである。

もちろん、違ったタイプの指揮者にも好きな人はたくさんいるし、曲にもよるのだけれども。

そして、このタイプの指揮者は、日本人でいうと、沼尻竜典など近いのではないかと思われる。

来年3月に彼が振る予定の、びわ湖ホールでの「ヴァルキューレ」が楽しみである。

 

 


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