日本センチュリー交響楽団
第222回定期演奏会
【日時】
2018年1月19日(金) 開演 19:00 (開場 18:00)
【会場】
ザ・シンフォニーホール (大阪)
【演奏】
指揮:飯森範親
ピアノ:アレクサンダー・ガヴリリュク *
管弦楽:日本センチュリー交響楽団
(コンサートマスター:松浦奈々)
【プログラム】
プロコフィエフ:ピアノ協奏曲 第1番 変二長調 作品10 *
ブルックナー:交響曲 第4番 変ホ長調 「ロマンティック」 WAB104 (1878/1880年版)
※アンコール(ソリスト) *
ラフマニノフ:ヴォカリーズ 作品34-14 (コチシュ編)
センチュリー響の定期演奏会を聴きに行った。
プロコフィエフとブルックナーという、ちょっと変わった組み合わせ。
前半は、プロコフィエフのピアノ協奏曲第1番。
ソリストは、アレクサンダー・ガヴリリュク。
彼は、世界的に活躍する素晴らしいピアニストの一人である。
旧ソ連のウクライナ出身で、ロシア系のパワフルなピアニストたちの中でも、群を抜いて優れた精緻なテクニックを有する人である。
彼ほど高度なテクニックをもつピアニストは、他にダニエル・シューなど、数えるほどしかいないように思う。
彼の弾くメンデルスゾーン/ホロヴィッツの結婚行進曲(Apple Music/CD/DVD)や、プロコフィエフのピアノ・ソナタ第7番(新盤、NML/Apple Music/CD)は、実に素晴らしい。
しかし、物足りない点も、実はある。
それは何も、「超絶技巧曲はうまくても、やっぱりピアニストたるものバッハやモーツァルトのような古典曲を立派に弾けないと一人前とはいえない」などと野暮なことを言いたいわけではない。
彼の得意とする超絶技巧曲、例えばバラキレフの「イスラメイ」(Apple Music/DVD)、リストの「メフィスト・ワルツ」(NML/Apple Music/CD)、バッハ/ブゾーニの「シャコンヌ」(Apple Music/CD)などにおいて、一抹の物足りなさを感じるのである。
なぜか。
彼には、盛り上がるべきところで盛り上がりきらない傾向があるように思う。
「イスラメイ」では、全体に少しのっそりしたテンポになってしまっている。
「メフィスト・ワルツ」では、トップスピードで進むスリリングなところもけっこうあるのに、要所要所でテンポが遅めになってしまう(例えば、後半の跳躍部分は見事なのに、その後の和音連打とか、右手が幅広い音域をアルペッジョで駆け巡る箇所なんかは、テンポが少し引きずっている)。
「シャコンヌ」でも、急速な両手のユニゾンが出てくる変奏など、わずかながら引きずるような重めのテンポになっている。
他にも、ブラームスの「パガニーニ変奏曲」最終変奏や、プロコフィエフのピアノ・ソナタ第6番終楽章など、同様の例はいくつもみられる。
こうした傾向のせいで、私にとっては興奮がそがれ、「これぞ!」という彼の録音があまりないという結果になってしまっている(一番上に挙げた2曲については文句なく好きなのだが)。
ここぞというところで、重くなってしまうのは、なぜなのだろう。
セッション録音ではライヴよりもおとなしくなってしまう、というタイプのピアニストは多いが、彼の場合はライヴ録音でもこうなってしまっているケースがけっこう多い。
テクニック的に安全を期するためだろうか。
彼ほどのテクニシャンであれば、それは考えにくいような気がする。
もしかすると、彼はあまりにぐいぐいと音楽を推進させ続けることに、やや恥じらいを感ずるタイプの人なのかもしれない。
これは、爆演タイプの多いロシア系のピアニストとしては、むしろ珍しい気がする。
そんな彼の弾く、プロコフィエフのピアノ協奏曲第1番。
この曲はすでにセッション録音もされており(アシュケナージ指揮シドニー響。NML/CD)、もちろん大変うまい。
うまいのだが、同曲で私の好きな録音の
●リヒテル(Pf) アンチェル指揮プラハ響 1954年5月24日セッション盤(NML/Apple Music/CD)
●ガヴリーロフ(Pf) ラトル指揮ロンドン響 1977年7月セッション盤(NML/Apple Music/CD)
●ラ・サール(Pf) フォスター指揮グルベンキアン財団管 2006年セッション盤(NML/Apple Music/CD)
あたりと比べると、やはり「攻め」の姿勢が少なく感じられる。
特に、第3部においてその傾向が強いし、最後の主要主題が再現する箇所でのダブル・オクターヴ等が出てくるところでも、ずるずると引きずるような重さがある。
今回の実演ではどうなることだろう、と楽しみ半分、不安半分で聴きに行ったのだった。
実際に聴いてみると、意外にも文句なしの名演だった。
第1部、総奏による開始のすぐ後、ピアノのカデンツァ風の箇所で、十分に速いテンポが聴かれ、早くも攻めの姿勢を示してくれた。
そして、彼ならではの精確で余裕のある打鍵は健在。
プロコフィエフにぴったりの、シャープでキレのある輝かしい演奏だった。
スタイルとしては、上記の3盤の中ではリヒテルやガヴリーロフよりもすっきりと現代風という点ではラ・サールに近い。
しかし、そこはやはりロシア系のピアニスト、分厚い和音においてはきわめて力強く充実した音が聴かれ、その点ではリヒテルやガヴリーロフと共通している。
ちょうど中間くらいの位置づけと言ってもいいかもしれない。
そして、録音では気付きにくかったことだが、第2部のような緩徐な箇所で、彼は曲の妖しい美しさを最大限に引き出していた。
こういうセンスもあるピアニストである。
そして、問題の第3部も、そしてその最後のダブル・オクターヴの箇所も、今回は終始攻めの姿勢であり、それでいて破綻なく、タッチ・コントロールは相変わらず精緻で滑らか、大変にエキサイティングな演奏だった。
ただし、敢えて言うならば、このダブル・オクターヴの箇所で、彼はあまり大きな音を出そうとせず、オーケストラに埋もれがちになってしまったのは、少し残念だった。
この箇所ではリヒテルなど本当にすごくて、圧倒的な迫力なのだが、ガヴリリュクがリヒテルほどの音は出せないとしても、もっと大きな音を出そうとしないのは、なぜか。
やはり、彼自身の好みの問題というか、直球的な迫力や情熱で聴き手を圧倒することに対する、何かしらの恥じらいのようなものがあるのかもしれない。
アンコールの「ヴォカリーズ」も、ロシアならではの濃厚なロマンたっぷりというよりは、むしろしみじみとした感じの演奏だった。
なお、ぜひ付け加えたいのだが、このプロコフィエフのピアノ協奏曲では、飯森範親の指揮も大変良かった。
躍動感があって、かつどことなく「色気」が感じられる。
教科書的な硬さのない、血の通った音楽といった感じ。
昨日聴いた若き指揮者、角田鋼亮も(その記事はこちら)、こういう表現ができるようになるといいだろう。
後半は、ブルックナーの交響曲第4番「ロマンティック」。
この曲には、ブルックナー自身の改訂による複数のバージョンが存在するのだが、今回演奏された第2稿において私の好きな録音は
●クレンペラー指揮フィルハーモニア管 1963年9月セッション盤(NML/Apple Music/CD)
あたりである。
曲の内部構造を浮き彫りにした、クリアな名演。
ただ、どしっとした少し大時代的なところもないではなく、できればケント・ナガノあたりの指揮でも聴きたいのだが、残念ながらナガノの録音は第1稿しかない。
今回の飯森範親&センチュリー響の演奏は、大変すっきりしたものだった。
編成も小さめで、二管編成、弦は12型くらい(私の席からはよく見えなかったが)。
作曲当時に一般的だった編成に近いものと思われる。
飯森範親らしい、風通しの良い優美な演奏で、テンポも「いかにもブルックナー」な重々しいものでなく、もっと軽やか。
この曲がシューベルトの交響曲「グレイト」あたりの延長線上にある曲だということに気づかせてくれた。
冒頭のホルンの主題からして何ともさわやかで、まさに「グレイト」の冒頭主題のようである。
メランコリックかつリズミカルな特徴をもつ第2楽章も、「グレイト」の緩徐楽章を思わせる。
ヴィオラによる副主題も上記クレンペラー盤に聴かれるような重さは全くなく、「グレイト」の緩徐楽章の副主題のような清々しさがある。
第3楽章の「狩の音楽」は、今度はヴェーバーの「魔弾の射手」を思わせる。
終楽章だけは比較的ゆったりしたテンポだったけれど(あるいは意外と速いクレンペラー盤を聴き慣れているからそう感じたのかもしれない)、それでもさわやかさは保たれていた。
全体に、ブルックナーが初期ロマン派の影響をたっぷりと受けて成長・熟達していったということを再認識させてくれる演奏であり、これはこれで大変良かった。
―追記(2018/01/21)―
他の方の記事を拝読すると、ブルックナーでの弦は10型とのことであった。
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