(音楽家の教養) | 音と言葉と音楽家  ~クラシック音楽コンサート鑑賞記 in 関西~

音と言葉と音楽家  ~クラシック音楽コンサート鑑賞記 in 関西~

クラシック音楽の鑑賞日記や雑記です。
“たまにしか書かないけど日記”というタイトルでしたが、最近毎日のように書いているので変更しました。
敬愛する音楽評論家ロベルト・シューマン、ヴィルヘルム・フルトヴェングラー、吉田秀和の著作や翻訳に因んで名付けています。

今回は演奏会の感想ではなく、別の話題を。
最近注目しているピアニスト、石井楓子のブログを見ていると、けっこうな読書家であることが分かる。
最近は、三島由紀夫の「暁の寺」を読んでいるそうな。
こんな「ちゃんとした」本を読む若者は、音楽家に限らず、また洋の東西を問わず、今や少ないのではないだろうか?
いや、実際のところはよく知らないのだが。
「それくらい、みんな読んでるよ!」と言われれば、立つ瀬はない。

 

思い出してみると、かつての音楽家たち(の少なくとも一部の人)は、想像もつかないほどの教養を身につけていた。
ブルーノ・ワルターの自伝「主題と変奏」を読んでいると、彼がカントにショーペンハウアー、ゲーテにシラー、ジャン・パウル、それから同時代のホーフマンスタールなど、ありとあらゆるものを読んでいたことが分かる。
ヴィルヘルム・フルトヴェングラーも、あるとき録音技術者のフリードリヒ・シュナップ博士に、「ベートーヴェンの<田園>を指揮するには、アーダルベルト・シュティフターを読まねばならない」と言った、とのことである(シュナップ博士のインタビュー記事より)。
二人とも、かなりの本を読んでいたのではないだろうか。
彼らの遺したいくつかの文章は、それを裏付けている。

 

それに、何といっても、彼ら二人の往復書簡。
それは、第二次大戦後に二人の間でやりとりされた書簡であり、サム・H・白川 著「フルトヴェングラー 悪魔の楽匠」に掲載されているが、その凄みのある議論の内容によって同書のハイライトとなっているものである。
「良いドイツ」と「悪いドイツ」とが存在すると信じ、前者を守り抜くために奮闘した、フルトヴェングラー。
それに対し、トーマス・マンと同様、「良いドイツ」も「悪いドイツ」も同じものの表と裏でしかないと思うようになり、元来自身の根源であった「ドイツ的」なものがもはや信じられず、全人類的な博愛といったことにしか自身の基盤を置くことができなくなってしまった、ワルター。
この、凄まじいというほかない究極の芸術論、文化論の対決、その各々の主張の是非については、ここでは措いておく。
ここで強調したいのは、彼ら二人の文章力である。
この往復書簡を読むと、彼らは音楽家ではなく、文筆家なのではないかと錯覚してしまう。
相当な教養の裏付けがなければ、このような文章は書けないだろう。

 

私は、音楽家の基礎には教養があるべきだ、とは必ずしも考えない。
音楽を「感じる心」と、それを「表現する力」があれば、問題なく素晴らしい音楽を奏でることができるだろう。
ただ、教養は、音楽に何かプラスアルファを付け加える、あるいは音楽をさらに豊かにするためのインスピレーションをもたらす原動力になる可能性がある、とは思っている。
上記ワルターやフルトヴェングラーなどの演奏を聴いていると、そう思えるのである。

 

そのような音楽家は、最近はあまりいないのではないだろうか(音楽家に限らないが)。
石井楓子は、今どき珍しいタイプの音楽家であるように思われる。
彼女の書く文章についても、例えば先日クララ・ハスキル国際ピアノコンクールで優勝した藤田真央の演奏を評した記事が彼女のブログにあったが、天衣無縫な演奏を言葉で巧みに表現した、優しくあたたかな文章であった。
もちろん、ワルターやフルトヴェングラーのように修辞学的技巧の凝らされた文章ではなく、より現代に即した親しみやすいものではあるけれども、普通の音楽家、それも若いピアニストには、なかなかああは書けないのではなかろうか?


それに、彼女は自身のピアノの練習について、1曲を仕上げるのに、最低2年を要するとのこと。
初見でもかなりのレベルで弾けてしまうようなプロの演奏家にとって、1曲につき2年以上というのはかなりの年月ではないだろうか。
またもや、フルトヴェングラーのエピソードを思い出す。

彼は、移動のための船の上でも、常にスコア(楽譜)を広げて研究していたという。
カール・ベームやカール・リヒターも、よく飛行機の上でスコアを見ていたらしい。
要するに、彼らは常に音楽の探求の虜なのだろう。
石井楓子からもそういった、いわゆる「昔気質」を感じるのである。

 

繰り返しになるが、私は音楽においてそういった要素が必須であるとは感じていない。
色々な音楽家のタイプがあっていい。
それに、何も文学作品に限らず、マンガしかりアニメしかり、色々なものが音楽の「肥し」になりうるだろう。
ただ、かつての偉大なマエストロたちの伝統のようなこの「昔気質」は、今では絶滅危惧種のように思われるだけに、私には何やらとても嬉しいのだった。
ワルターやフルトヴェングラーはゲーテやシラーを読み、我らが石井楓子は三島由紀夫を読む。
何とも素晴らしいことではないか?
そしてその気質は、彼女の奏でる音楽にもしっかりと表れ出ているように、私には思われるのである。

 

 


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