大阪フィルハーモニー交響楽団 第509回定期 準メルクル ストラヴィンスキー「ペトルーシュカ」他 | 音と言葉と音楽家  ~クラシック音楽コンサート鑑賞記 in 関西~

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クラシック音楽の鑑賞日記や雑記です。
“たまにしか書かないけど日記”というタイトルでしたが、最近毎日のように書いているので変更しました。
敬愛する音楽評論家ロベルト・シューマン、ヴィルヘルム・フルトヴェングラー、吉田秀和の著作や翻訳に因んで名付けています。

大阪フィルハーモニー交響楽団

第509回定期演奏会 
 
【日時】

2017年6月23日(金) 開演 19:00 (開場 18:00)

 

【会場】

フェスティバルホール (大阪)

 

【演奏】
指揮:準・メルクル
ピアノ:ニコラ・アンゲリッシュ

管弦楽:大阪フィルハーモニー交響楽団

(コンサートマスター:田野倉雅秋)

 

【プログラム】
ファリャ:バレエ組曲「恋は魔術師」〔1925年版〕
ラフマニノフ:パガニーニの主題による狂詩曲 作品43
ストラヴィンスキー:バレエ音楽「ペトルーシュカ」〔1947年版〕

 

※アンコール(ソリスト)

ショパン:マズルカ 第40番 ヘ短調 op.63-2

 

 

 

 

 

大フィルの定期演奏会を聴きに行った。

指揮は準メルクル、ピアノは二コラ・アンゲリッシュ、ともに実演を聴くのは初めて。

アンゲリッシュといえばこれまで、ラフマニノフの「音の絵」(Apple Music)、リストの「巡礼の年」(Apple Music)、ブラームスのピアノ協奏曲第1番(Apple Music)、第2番(CD)の録音で聴けるような、みずみずしい音色による端正なピアニズムが印象的だった。

今回もそれを期待して聴きに行ったのだったが、確かに往年の美点はそこかしこに感じられるものの、演奏様式はややクセのあるものに変わっており、またタッチにもときにムラが聴かれ、残念ながら期待通りとまでは行かなかった。

タッチは滑らかなところはとても滑らかだったし、彼ならではのみずみずしい音色もところどころ聴かれた。

特に、有名な第18変奏では現在の彼のクセというか、濃い表情付けがよく合っていて、また彼の美音も健在で、大変美しかった。

また、最終変奏でも、跳躍の多いスタッカートの各音が美しく際立っていて、さすがだった。

ただ、全ての音が美しく磨かれていたかというと、そうではなく出てしまったような音もあり、ムラがあった。

また、特にアンコールで顕著に聴かれたように、あるメロディの同じフレーズ内で強弱の起伏が極端に大きく、またそれが綿密に考えられたというよりはやや気まぐれな印象で、以前の端正なイメージからは遠ざかってしまっていたのが、私には残念だった。

全体的に、演奏が「歳を取った」ような印象だった(ある意味では「円熟」や「音楽の深まり」ともいえるのかもしれないが)。

見た目も、以前のジャケット写真の印象と比べると、ずいぶん変わったように感じた(彼はアンスネスあたりと同年代のはずなのだが)。

まぁ、歳を取るのは全ての人にとって避けられないことであり、あれこれ言うのはもうやめておく。

 

メインプロは、ストラヴィンスキーのバレー音楽「ペトルーシュカ」。

私はこの曲が大好きであり、今回の演奏会を心待ちにしていたのだった。

実演で頻繁に聴けるわけではないこの曲、今回聴いてみて、やはり傑作であるとの思いを新たにした。

全音音階、教会旋法、複雑な変拍子、単純なメロディと前衛的な書法との奇妙な共存、複調(この曲の最大の特徴かもしれない)、各楽器の独立した奏法(まるで点描のような)といった、あらゆる種類の技法を用いて書かれており、曲の隅々まで強烈な色彩感と、ロマンティシズムを完全に排した「乾いた魅力」に溢れている。

このような音楽はそれまでに存在せず、次作の「春の祭典」と並んで、まさに20世紀の開始を高らかに告げる音楽と言っていいのではないだろうか。

ちょうど、「ペトルーシュカ」と同じ1911年に初演されたR.シュトラウスのオペラ「ばらの騎士」が、19世紀の最後の輝きとでも言いたいような音楽であるのと、好対照をなしていると思う。

前半のプログラムの「恋は魔術師」も「ペトルーシュカ」と同じくバレー音楽で、スペインの味わいの良く出た名曲とは思うのだが、こうして同じ演奏会で比べてしまうと、「ペトルーシュカ」のあまりの存在感、溢れるような色彩、強烈なパワー、エポックメイキングな魅力の前には、どうしても影が薄くなってしまう気がした(ファリャのファンの方々、ごめんなさい…)。

 

そんな「ペトルーシュカ」だが、録音ではなかなか満足できるものがない。

というのも、ブーレーズ/ニューヨーク・フィル1971年盤(Apple Music)があまりに名演すぎるのだ。

キレッキレというよりはやや落ち着いたテンポで終始続いていくのだが、無理しておどけるような箇所がなく大変自然で、かつ各楽器・各パートがあまりにきれいに分離・整理され、ヴィヴィッドに聴こえてくるのである。

特に、管楽器の活かし方の見事さが尋常でない。

第1場の手回しオルガンを模した部分の、明るく色彩的な明瞭さ。

また、第4場の熊と熊使いの踊りの後に出てくる、各管楽器が独立したパッセージを奏する部分の、まるで霧の中で光がゆらゆらと揺らめくかのような透明な美しさ。

絵の具を混ぜるのでなく、原色を細かく配置して明るい光の色彩を表現する―そんなイメージのある、(厚塗りのヴァーグナーとはまた違った)ストラヴィンスキー独特の書法を、完全に活かしきった演奏だと思う。

 

このような「超」のつく名盤に、今回の準メルクルの演奏が匹敵するものだったかと言われると、さすがにそこまでではなかったと言わざるを得ない。

特に、管楽器をもう少しクリアに活かしてくれたらなお良かった。

しかし、グロテスクさを強調しすぎないストレートな姿勢はブーレーズと共通しており、好ましく感じた。

また、躍動感という意味ではむしろブーレーズ盤以上だった(特に第4場の市場の祭りの場面はかなりのハイテンポだった)。

それに、何よりもこの曲を前プロでなくメインプロとして真剣に取り組んでくれたことに、大いに感謝したい。

そのためか、完成度はなかなか高かった。

以前聴いたこの曲の実演では前プロだったが、そのときはもっとぼてっとした、キレに欠ける演奏だった(そのときの記事はこちら)。

 

また、このような難しい曲(「春の祭典」よりも難しいのではないか、と聴いていて思うのだが、どうだろうか?)において、かなりのテンポにもかかわらず、完璧とは言わないまでも一定以上の水準の演奏を提供してくれた大フィルのメンバーにも、お礼を言いたい気分である。

特に、第4場冒頭の弦楽器は、上記ブーレーズ盤のニューヨーク・フィルの弦よりも美しいと感じた(実演と録音の差もあるかもしれないけれど)。

また、管楽器では特にトランペット(秋月孝之?)やクラリネット(ブルックス・トーン)がとりわけ安定し傑出していた。

ピアノの佐竹裕介も、控えめながら安定感のある演奏で、安心して聴くことができた(個人的な好みでは、ピアノにもう少し前面に出てほしかったが)。

 

さて、今年の秋にはサイモン・ラトル/ベルリン・フィルがこの曲を演奏する(前プロだけれど)。

ぜひ聴いてみたかったのだが、東京だし、またチケットは早々に完売とのことで、今回は諦めることにした。

いったいどのような演奏になるのだろうか。

 

さらに言うと、私は、ドビュッシーの「海」、ラヴェルの「ダフニスとクロエ」、ストラヴィンスキーの「春の祭典」など、あらゆるブーレーズの名盤を超えるほどの演奏で驚かせてくれたヤニク・ネゼ=セガンこそ、いつか「ペトルーシュカ」の新たな決定的名盤を実現してくれるのではないか、とひそかに期待しているのだった。

 

 


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