日本センチュリー交響楽団 第217回定期演奏会 シトコヴェツキー シューマン 交響曲第2番 ほか | 音と言葉と音楽家  ~クラシック音楽コンサート鑑賞記 in 関西~

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クラシック音楽の鑑賞日記や雑記です。
“たまにしか書かないけど日記”というタイトルでしたが、最近毎日のように書いているので変更しました。
敬愛する音楽評論家ロベルト・シューマン、ヴィルヘルム・フルトヴェングラー、吉田秀和の著作や翻訳に因んで名付けています。

日本センチュリー交響楽団

第217回 定期演奏会

 

【日時】

2017年6月17日(土) 開演 14:00

 

【会場】

ザ・シンフォニーホール (大阪)

 

【演奏】

指揮・ヴァイオリン:ドミトリー・シトコヴェツキー
管弦楽:日本センチュリー交響楽団

(コンサートマスター:後藤龍伸)

 

【プログラム】
アダムス:管弦楽のためのフォックストロット「議長は踊る」

コリリアーノ:「レッド・バイオリン」組曲

シューマン:交響曲 第2番 ハ長調 作品61

 

※アンコール(ソリスト)

J.S.バッハ:無伴奏ヴァイオリンのためのソナタ 第3番 ハ長調 BWV1005 より 3. Largo

 

 

 

 

 

センチュリーの定期演奏会を聴きに行った。

最初のアダムズは、ミニマルのようでいて違う、独特な曲だった(ポスト・ミニマルというらしい)。

後半、ピアノの感じが何となくストラヴィンスキーの「3楽章の交響曲」の第1楽章に似ている気がした(違うかな?)。

 

次のコリリアーノは、「レッド・バイオリン」という映画の音楽からの組曲。

私はこの映画を観たことがないが、この組曲はリゲティ的な要素を感じさせる部分と、もっとメロディアスな部分とが混在していて、面白かった。

この曲には、ヴァイオリン・ソロの部分がけっこうある。

そこではシトコヴェツキーがソロを弾くのだが、かなりの存在感、艶が感じられ、さすがだった。

話は少し逸れるが、普段愛読させていただいているブロガーさんの記事で、別府アルゲリッチ音楽祭でのイヴリー・ギトリスのマスタークラスで、若い受講者がギトリスに「大きな音を出すにはどうしたらいいか」と聞くというシーンがあった。

そのときギトリスは「君の音は十分大きいよ、それに大きな音さえ出ればいいのかい?」と優しく励ました(あるいはたしなめた?)とのことだった。

それを読んだときは「天下のギトリスに、楽曲解釈とか豊富な音楽経験・知識とかではなくて、そういうことを聞くのね(^^;」とちょっと思ったのだった。

しかし、今回シトコヴェツキーの演奏を聴いて、その若い受講者が言っていた意味が少し分かったような気がした。

やっぱり、「音が大きい」のである。

そんなにがんばってもいないのに、余裕な様子で存在感のある音が出ていて、まさに「ソリスト」といった雰囲気だった。

音程は危ういときもあったし、アンコールのバッハでは音程はより確かだったが、かなり自由でラプソディックな解釈で、バッハの真面目な専門家が聴いたら怒りそうな演奏。

なのに、音の存在感だけで聴衆を魅了してしまうのである。

派手な音というわけではないのだが、ヴィブラートをしっかりかけて艶があって、本来もっと細身の音が好みである私でさえ、この音にはやられてしまった。

こういう、「音で聴衆を虜にする」というのは、ピアノでもありうるが、ヴァイオリンだとよりいっそうその傾向が強いような気がする(ピアノならば、音の魅了が多少乏しくても、滑らかな指回りやこだわりの解釈などでカバーできる部分が大きいように思うのは気のせい?)。

こういった「存在感のある大きな音」を出すにはいったいどうしたらいいのか、私もギトリスやシトコヴェツキーに聞いてみたくなってしまった。

 

それはそれとして、後半はシューマンの交響曲第2番。

シューマンの交響曲の中では、私はこの第2番が最も好きである。

さわやかな第1番から数年を経てより深みが増しており、過渡期的な欠点もないではないけれども(形式的にやや不格好で、完成度としては後年の第3番のほうが高いような気がする)、そこがまた愛すべき点であるように思う(完成されない憧れ、とでも言ったらいいか)。

そういった、ベートーヴェンやブラームスのような整然とした、どっしりした交響曲とはまた違った、シューベルトにも通ずるようなシューマン特有のファンタジーをよく伝える演奏として、私はアーノンクール/ヨーロッパ室内管盤(NMLApple Music)や、アバド/ベルリン・フィルによる演奏(デジタルコンサートホール)を好んで聴くことが多い。

しかし、以前はカラヤン/ベルリン・フィル盤(NMLApple Music)のような、より壮麗で力強いベートーヴェン風の演奏が大好きだったこともあったし、今でもこれはこれで好きである。

そして今回のシトコヴェツキーによる演奏は、カラヤン盤を思い出させてくれるような力強いものだった。

もちろん、カラヤン盤とは違う点もあるけれども(カラヤン盤よりは渋い感じの演奏)、アーノンクールやアバドのような優美で洗練された演奏というよりは、もっとしっかりとした分厚めの演奏であることは確かだった。

第1楽章の展開部での充実したクレッシェンド、第2楽章スケルツォでの軽快すぎないじっくりとした音の運び、第3楽章の重厚な情感、そして終楽章のまるで「運命」交響曲の終楽章のような迫力、いずれもベートーヴェンの延長線上としてのドイツの交響曲を感じさせてくれる演奏だった。

以前の記事にも似たようなことを少し書いたが、初期ドイツ・ロマン派の代表的作曲家として「ポスト・ベートーヴェン」の重責を担っていたシューマンは、もしかしたら幻想性・ロマン性を重視した演奏よりも、むしろこういった演奏のほうを喜んだかもしれない―そんなことを考えながら今回の演奏を聴いたのだった。

 

 


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