日本センチュリー交響楽団 第9回びわ湖定期 沼尻竜典 ベートーヴェン 交響曲第3番「英雄」 ほか | 音と言葉と音楽家  ~クラシック音楽コンサート鑑賞記 in 関西~

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“たまにしか書かないけど日記”というタイトルでしたが、最近毎日のように書いているので変更しました。
敬愛する音楽評論家ロベルト・シューマン、ヴィルヘルム・フルトヴェングラー、吉田秀和の著作や翻訳に因んで名付けています。

日本センチュリー交響楽団 びわ湖定期公演 vol.9

【日時】
2017年2月11日(土) 17:00 開演 

【会場】
びわ湖ホール 大ホール (滋賀)
 

【演奏】

指 揮:沼尻竜典
ピアノ:菊池洋子
管弦楽:日本センチュリー交響楽団

 

【プログラム】
ロッシーニ:歌劇『どろぼうかささぎ』序曲
ベートーヴェン:ピアノ協奏曲 第1番 ハ長調 作品15
ベートーヴェン:交響曲 第3番 変ホ長調 作品55「英雄」

 

※ソリスト・アンコール

ヘンデル:クラヴィーア組曲第2巻 第1番 変ロ長調 HWV 434 より 第4曲 メヌエット

 

 

 

 

 

今日は用事が大幅に長引いてしまって、このコンサートはソリスト・アンコールと後半(ベートーヴェンの「英雄」)しか聴けなかった。

本当は、このコンサートの前のオペラ「連隊の娘」も観ようと思っていたのに、全く無理だった。

残念。

菊池洋子によるベートーヴェンの協奏曲は聴けなかったが、アンコールは味わいのある演奏でなかなか良かった。

美しい弱音の印象的なピアニストだと感じた。

 

メイン・プロの「英雄」。

普段のコンサートはもっぱら2階席、3階席、4階席といった安い席で聴いているのだが、今回は1階席中央前方という高い席で聴いたため、いつもとは響きが異なっていた。

普段の安い席よりも迫力のある音響が楽しめたが、そのぶん楽器と楽器の間での響きのブレンドという意味ではやや物足りないような印象もある席である。

ただ、ベートーヴェンは古典派の時代の作曲家であり、オーケストラの編成も、より後年の後期ロマン派の大管弦楽曲に比べると小さめである(今回1階席なのできちんとは数えられなかったが、おそらく12型編成だった)。

こういった曲の場合、よほどパワフルな楽団でなければ、大きなホールの後方まで迫力ある音を聴かせることは難しい。

残念ながら、昨年聴いた大フィルの「英雄」も、迫力はやや不足して聴こえた(そのときの記事はこちら)。

それに対し今回は、十分に迫力のある音を聴くことができた。

そういった意味では、今回の座席は一長一短あれど、今回については「長」のほうが「短」よりも大きかったかもしれない。

 

沼尻竜典の演奏は、昨年3月に同じびわ湖ホールでヴァーグナーの「さまよえるオランダ人」を聴いたが、このときはヴァーグナーならではの「重さ」があまりなく、やや物足りなく感じた。

しかし、やはり同じびわ湖ホールで、昨年の大晦日にジルヴェスター・コンサートを聴いたが(そのときの記事はこちら)、このときは彼のすっきりとした演奏が好印象だった(特にモンテヴェルディの「オルフェオ」からの抜粋)。

そして、トークのときもあまりウケを狙うわけでもなく、また喋りたいことをどんどん喋って自分のペースを作るわけでもなく、ただ淡々と司会者からの質問に答えるといったスタイルであり、その飄々とした受け答えの様子が彼の演奏ともマッチしていて、面白く感じたのだった。

 

今回の「英雄」も、やはりすっきりとした風通しの良い演奏であった。

すっきりといっても、起伏に乏しい演奏というわけではない。

フォルテ(強音)の部分では煽って煽ってしっかりとした音を聴かせてくれるし、またテンポの細かな変化や強いアクセントも結構あり、いわゆるベートーヴェンらしさはしっかり表現された演奏であった。

それでも「風通しの良い演奏」に感じたのは、一つにはその音の質による。

彼の鳴らす音は、フォルテであっても、荒々しくなったりずっしり重くなったりせず、すっきりと美しく響く。

泣き叫ぶような音には、決してならないのである。

そして、彼のテンポの変化やアクセントが、綿密にしっかりと解釈され、コントロールされていることも、また「風通しの良い演奏」と感じる理由の一つだと思う。

彼の演奏は、その場の自然な感興でテンポなどを動かしているというよりは、事前に綿密に解釈してそれをしっかり表現している、というように感じられる。

例えば第1楽章の第2主題の後、いったんピアノ(弱音)に収まってから、弦楽器を中心にスタッカートで歯切れよく奏しながら徐々にクレッシェンド(だんだん強く)していく箇所がある。

ここを、彼はスタッカートというよりも、テヌート(音の長さを保って)気味にしており、彼ならではの特徴的な解釈が感じられた。

また、第1楽章の展開部のちょうど真ん中あたり、いったん盛り上がって頂点に達した後、弦楽器を中心にスタッカートで歯切れよく奏しながら、今度は徐々にデクレッシェンド(だんだん弱く)して新しい主題に入る、といった箇所がある。

ここのスタッカートで、彼は最初かなり「タメ」をみせ、ゆっくりめのテンポで入るのだが、すぐに加速してもとの速いテンポに戻り、新しい主題に入る前にはすっかりもとのテンポになっていた。

この新しい主題は抒情的な性格を持っており、自然な感興に従うならば、ややゆっくりめのテンポで奏されることが多い。

それを彼は、直前のスタッカート部分でかなりテンポを落としたにもかかわらず、この新しい主題ではすっかりもとのテンポに戻しているのである。

「もとのテンポはしっかりと保つべき」という彼のしっかりとした解釈が感じられた。

その他、特徴的なアクセントをしっかりと際立たせたり(終楽章のコーダなど)、またある音をクレッシェンドで膨らませたと思ったらすぐにデクレッシェンドで収めたりなど、彼の演奏からは綿密な読譜に基づくと思われる工夫がそこここに感じられ、「熱狂」と「冷静」とが同居しているような感じを受けるのである。

全ての部分がしっかり解釈され、またコントロールされ洗練されており、癖のある特徴的な解釈をする部分であっても、基本的な快速のイン・テンポの中で綿密なコントロール下で生起するため、田舎臭いとか、鈍重に感じられることがない。

そのあたりが、「風通しの良い演奏」という印象につながっているのだと思う。

「人工的な熱狂」とでもいうようなこういった演奏は、例えばサイモン・ラトルあたりに通じる点があると言っても良いかもしれない。

このようなベートーヴェンは、好き嫌いは分かれるかもしれないが、私はけっこう好きであった。

これほど充実した「英雄」の実演は、そう滅多に聴けるわけではないと思う。

 

終演後、聴衆による拍手喝采はそれなりに大きかったし、ブラボーも飛び交っていたが、彼はその称賛をゆっくりかみしめたり、マエストロらしくどっしりした態度を取ったりすることなく、オケの団員を立たせて称えたり、首席奏者たちと握手したり、ひょこっとお辞儀をしたと思ったら足早に退場したりと、常に何かしら動いている様子であった。

ジルヴェスター・コンサートのとき同様、どことなく飄々とした印象があり、思わずにんまりしてしまった。

 

なお、オーケストラも指揮者の注文によく応えて奮闘していたと思う。

中でも印象に残ったのは、ホルンの美しさである。

目立ったミスは一度もなく、快速テンポの中でさりげないニュアンスが表現されていた。

 

蛇足だが、第1楽章のコーダのクライマックスではトランペットがパッセージの最後まで奏しており、ヴァインガルトナーによる改訂版を使用しているようであった。

 

 


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