シューベルト こころの奥へ vol.7 アンドラーシュ・シフ
【日時】
2017年3月17日(金) 19:00 開演
【会場】
いずみホール (大阪)
【演奏】
アンドラーシュ・シフ (ピアノ)
【プログラム】
シューベルト:
ピアノ・ソナタ 第18番 ト長調 D894 《幻想》
ピアノ・ソナタ 第20番 イ長調 D959
ピアノ・ソナタ 第21番 変ロ長調 D960
※アンコール
シューベルト:
4つの即興曲 D935 より 第3曲 変ロ長調
ハンガリー風のメロディ ロ短調 D817
4つの即興曲 D899 より 第2曲 変ホ長調
4つの即興曲 D935 より 第2曲 変イ長調
私は、好きなピアニストは?と聞かれると、非常に困ってしまう。
挙げたいピアニストがあまりに多すぎるのだ。
しかし、クラシック音楽を好きになった初期のころから現在に至るまで、ずっと敬愛し大きな影響を受け続けたピアニストは、ともし聞かれたならば、私はスヴャトスラフ・リヒテルやマウリツィオ・ポリーニとともに、アンドラーシュ・シフの名を挙げなくてはならないだろう。
当初の私は、モーツァルトやベートーヴェン、シューベルトが大好きだったのに比べ、バッハに対してはあまりに敬虔で厳かな、やや堅苦しいものを感じていた。
そんな私にバッハに対する目を開かせてくれたのが、シフだった。
例えばグレン・グールドのバッハも大変素晴らしいのだが、グールドの場合はその強い個性が「異端児」としての彼自身の存在を前面に押し出すのに対し、シフの場合は同じくらい個性的な演奏であるにもかかわらずきわめて自然で、私にとってはバッハそのものを感じることができるのである。
グールドを聴きたいときにはもちろんグールドを聴くのだが、バッハを(ピアノで)聴きたい場合には、私はシフを選ぶ。
私はこういった、作曲者自身を感じられる演奏が、とりわけ好きである。
オーセンティシティと、緻密で人工的な工夫、そして自然な歌心―これらの幸福な融合が、シフの演奏の特徴ではないだろうか。
そんなシフの演奏を、確か今から6年ほど前、2011年の冬に、ついに生で聴く機会に恵まれた。
バッハの平均律クラヴィーア曲集第2巻全曲を紀尾井ホールでやるというので、これは絶対に聴かねばと思い、出かけていったのだった。
これはもう、私がこれまでに体験したあらゆるコンサートの中でも、5本の指に入ろうかというくらい、本当に素晴らしい演奏会だった。
私はシフが本当にペダルを一回も使わないことに心から驚き、ペダルを使わないのにここまで自然で美しい歌が、かつペダルを使わないからこそあまりに透明度の高く純粋な響きをもって、各声部それぞれから聴こえてくるのに、心底感嘆したのだった。
メランコリックで細やかな旋律をここまで歌い上げるかというほどに美しくクリアに歌い上げた第8番嬰ニ短調の前奏曲や、まるで妖精が飛翔するかのように軽やかに美しく奏された第23番ロ長調の前奏曲など、今でも昨日のことのように思い出す。
紀尾井ホールの広すぎず響きすぎない、バッハに適した程よい残響も素晴らしく、また個人的な思い出なども相まって、この演奏会は一生忘れられないであろうものとなった。
そんなシフだけれども、彼のモーツァルトやベートーヴェン、シューベルトは、もちろん大変素晴らしいのだけれども、私にとってはバッハほど絶対的なものではなかった。
彼独特の、オーセンティックな構成感と、自然な呼吸とのバランスが、バッハのときほどにはしっくりこない、といったところがある。
しかし、シフがこれらの作曲家をバッハと同じくらい大切に扱っていることは、彼のピアニストとしてのキャリアをかけてこれらの作曲家のピアノ・ソナタ全曲を録音していったことからも明らかで、こういった姿勢には私は心から賛同したいし、本当に頭が下がる思いがする(このようなピアニストは決して多くはないだろう)。
だから、私は完全にはしっくりこなくても、彼の音楽活動の集大成ともいえるこれらの録音を全て集めてきたし、今回のようにシューベルトのピアノ・ソナタ、それも後期の傑作を取り上げるという演奏会の存在を知ったならば、もう行かないわけにはいかないのである。
そんな今回の演奏会だったが、大変残念ながら最初の第18番は間に合わず、聴くことができなかった。
それでも、終楽章の最後の部分だけ、ホールのドアとドアの間の狭いスペースに入れてもらうことができたが、そこから間接的に聴こえるピアノの音でさえ、すでにとても美しかった。
そして、無事ホールに入って聴いた、第20番と第21番。
これらの曲は、上述のようにシフにより録音されていて、ナクソスミュージックライブラリーやApple Musicでも聴くことができる。
そのときのアプローチと、基本的には変わらない(20年以上も前の録音と基本的に変わらないというのも、すごい話である。よほど確固たる解釈なのだろう)。
この録音では、もちろん大変素晴らしいものの、ベーゼンドルファーのピアノの鄙びた音色が、古色の趣を感じさせる一方、シューベルト晩年のあまりにも繊細な感情の揺らぎを表現するにはやや物足りないような気も少ししていた。
今回の演奏会でも、同じくベーゼンドルファーのピアノが使用されていた。
しかし、生で聴くこのピアノは、何と違ったことだろう!
音の軽やかさは同じながら、録音とは全く違った印象で、本当に全ての音が生き生きとして夢のように美しかった。
特に高音部の美しさは、この楽器が弦を叩いて音を出しているとは信じがたいほどであった。
しかし、スタインウェイの陶酔的な美しさとも、また違う。
どこか覚醒したような、典雅かつしっかりしたフォルムのある、「古典的」とでもいいたいような、そんな音だった。
そのような特徴は、ピアノの音だけでなく、シフの演奏様式についても、同じようなことが言える。
彼は、たとえシューベルトの晩年のソナタであっても、ロマン的に過ぎる解釈はせず、古典的なフォルムを失わない。
その演奏には、きわめて自由な呼吸、テンポの揺らぎがあるにもかかわらず、である。
ここでも、シフ特有の、オーセンティシティと自由な歌心との融合を聴くことができる。
このやり方は、上述のように、私にとって本来必ずしも完全にしっくりくるものではない。
晩年のシューベルト特有の「孤独感」や「憧れ」のようなものをもっと表現してほしい気もするし(これはシフに言わせれば「ロマン的に過ぎる甘い解釈」ということになるのかもしれないが)、自由なテンポの揺らぎは、バッハにはぴったり合うもののシューベルトではもう少し素朴なイン・テンポ(一定の安定した速度)を期待してしまう。
しかし、この圧倒的な演奏を聴いていると、そのようなことは吹き飛んでしまうのだった。
演奏の特徴を細かく描写することは、私にはもうほとんどできない。
あらゆる部分が凄すぎて、書ききれないのである。
その中でも特に印象深かった箇所を数点挙げるにとどめておく。
第20番の第1楽章、第2主題のあとに三連符によるやや激しい箇所がある。
これが終わると第2主題がもう一度回帰することになるのだが、この三連符による箇所の最後のほうで、三連符でなく八分音符でオクターヴ下行するパッセージが出てくる。
ここの高音部の音が、とりわけ音を大きくしているというわけでもないのだが、本当に美しく際立たせられていたのが印象的だった。
また、同じ楽章で、呈示部が終わって冒頭に戻っていくときの期待感の高め方と、同じく呈示部が終わって今度は展開部へ移っていくときの、本当にがらっと変わる空気感(一瞬にして別世界に連れていかれるような感覚)、これらの対比が実に素晴らしかった。
第20番の第2楽章、ここではきちんと「Andantino」の指示に忠実に従ったべたつかないテンポで、かつ左手の3つの音からなる伴奏音型の最初の一音をペダルであいまいにつなげることなくきちんと切って、この美しい音楽を甘く扱わない厳しさがあった。
その中間部では、シューベルトにしても珍しい、レチタティーヴォ風の激しい曲調となるのだが、ここは激情に任せた荒っぽい解釈がよく聴かれるけれども、シフの場合はあくまで洗練され、しっかりとコントロールされているのが印象的だった。
そして中間部が終わり、冒頭の部分が再現されるのだが、ここでは主要主題の上に、オブリガート風の音型が付加されている。
どちらも右手で奏され、主要主題とオブリガートとがきわめて近い音域であるにもかかわらず、全く違った音色で弾き分けられ、まるで二人の全く声質の異なる人が歌っているかのように聴こえたのは、圧倒的だった!
どちらかの声部の音量を小さくして差を出すわけでもないのに、ここまで明瞭に弾き分けられるのは、どうしてなのか、こうして生演奏に接した後でも、私には全く分からない。
第20番の第3楽章、ここの軽やかなタッチは、シフの面目躍如と言っても良かった。
そして第20番の終楽章、シューベルトの心の歌!
この楽章の演奏は、今回の演奏会の中でも圧巻だった。
何の序奏もなく、いきなり美しい名旋律から始まるこの楽章。
この主要主題で、シフはきわめて明瞭な歯切れ良いアーティキュレーションを取りながらも(ミッソード、ドーシッドー(階名表記)というように、「ッ」のところできちんとスタッカートしている)、全くそっけなくならず、シューベルトの心の歌を余すところなく表現しているのである。
それも、過度の感傷を排した、あくまで秋の日の青空のような澄み切ったさわやかさを忘れない、晩年のシューベルト特有の歌である。
前述のような、やや気になってしまうシフ独特の自由なテンポの揺らぎも、ここではとても自然で、ほとんど気にならなかった。
この後には、この主題が今度は左手で奏されるのだが、この左手の歌うこと歌うこと。
6年前のバッハの演奏会でも感じたことだが、シフほど左手を明瞭に美しく歌わせるピアニストを、私は他に聴いたことがない。
そしてこの主題は深い感情のひだを次々表現したのち、第2主題(あるいは、ロンド形式としては第1エピソード主題というべきか)へと行きつく。
この第2主題が、また美しい。
シフはここでも、きちんとアーティキュレーションを明瞭かつ的確に表しながらも、その表現するところはやはり晩年のシューベルトのはかなくも美しい心の歌なのであった。
この主題は、途中から右手のオクターヴで奏されるのだが、ピアノで奏するオクターヴというのはどうしても硬めの響きになるのが普通なのに、シフが弾くと本当にどこまでも柔らかい歌になっているのは、驚くべきことだと思う。
各主題の展開と再現を経たのち、コーダ(結尾部)の最後では、第1楽章の第1主題が高らかに回帰する(もしかしたら、この曲は循環形式の草分けといっても良いかもしれない)。
シフは回帰したこの第1楽章第1主題の、最後の一音を決然と、かつ荒々しくない丁寧な音で奏し、そしてきわめて印象深く、長く引き伸ばしていた。
第21番でも、シフの明晰性は変わらない。
第1楽章は「Molto moderate」(きわめて中庸のテンポで)というやや謎めいた指示が記載されているのだが、これをかなりゆったりとしたテンポで弾くリヒテルのようなピアニストもいるのに対し、シフはそれこそ「moderate」そのものの、速くもなく遅くもないテンポを取る。
こういった、楽譜から逸脱したロマン性を許さない厳しい姿勢が、いかにもシフらしい。
この楽章の第1主題、これもシューベルト屈指の名旋律に数えていいだろうが、この「ドードーシードーレーミー、レドレーレーレードシドー」(階名表記)のあとに、内声で「ラーソー」が奏される。
この「ラーソー」はあくまで内声であり、第1主題の一部ではない。
しかし、第1主題がひと段落した後に奏されるため、この「ラーソー」は第1主題の一部のように聴こえてしまいがちである。
これを、シフの厳しさが許さない。
彼はこの「ラーソー」をきわめて小さい音量で奏することで、決して第1主題の一部でなく、ただの内声にすぎないということを明確に示すのである。
枝葉末節のようだが、こういう細かな「厳しさ」の積み重ねが、演奏全体の比類ない完成度の高さを実現しているのだと、私は信じている。
ところでこの第1主題は、一通り奏された後、低音部のトリルによって中断される。
この不気味な恐ろしいトリルは、その恐ろしさを表現するためか、ペダルで濁しながらもやもやと不明瞭に奏されることがほとんどである。
シフの厳しさはもちろん、そんなことを許しはしない。
このトリルを「音楽史上もっとも優れたトリル」と評したというシフは、最低音部であるにもかかわらず、ペダルで濁すことなく極めて明瞭にこのトリルを奏する。
トリルの最後の音も不必要に長く伸ばすことなく、最後まで響きが残るのはむしろ右手の第1主題の最後の音のほうである。
こういったシフの細かな、実に細かなこだわりが、私は大好きである。
そしてこの楽章でもう一つ言いたいのが、展開部である。
呈示部から展開部に移るとき、一瞬で空気をがらっと変えるのは、第20番と全く共通している。
そして、この第21番の展開部では、先ほど述べた低音部のトリルと、高音部の第1主題とが、呈示部よりも短いスパンで交互に現れる箇所がある。
ここのトリルと第1主題のそれぞれの美しさは、あたかも厚くたれこめる暗雲から光が差し込む情景が目に見えるかのごとくであった。
第21番の第2楽章も、第20番の同楽章と同様、あくまで「Andante sostenuto」の指示を逸脱しない、遅すぎないテンポで、なおかつ大変美しく奏された。
中間部ではメロディも伴奏もともに低音域になるため、何となくずっしりした、不明瞭な演奏になりがちなのだが、シフが弾くとやはりメロディ・伴奏ともに非常に生き生きと明瞭に歌われる。
第3楽章では、彼特有の自由なテンポの揺らぎが存分に発揮される。
そして終楽章も、彼の軽やかで美しいタッチが、曲の隅々に至るまで聴かれた。
現世への決別の歌のような最後のコーダでは、通常聴かれるよりも遅めのテンポで奏されていたのが、印象的だった。
あたかも、彼が深く敬愛するシューベルトの、この最後のピアノ・ソナタが終わりを告げてしまうのを、惜しむかのようだった…。
シューベルトの後期ピアノ・ソナタを弾いた後には、アンコールなんて弾きたくない、というピアニストだって多くいるだろう。
しかし、シフはこの後、長いプログラムでただでさえ夜遅い時間になっているにもかかわらず、アンコールを4曲も弾いてくれたのだった。
彼のような押しも押されもしない巨匠ピアニストが、こんなにたくさんのアンコールを弾いてくれるなどということは、そう多くはないのではないだろうか。
彼はおそらく、もったいぶるようなタイプではなく、ピアノを弾くことが、音楽を奏でることが、きっとたまらなく好きなのだろう。
次々と繰り出される彼の素晴らしいアンコール(とりわけ即興曲D935-3の最終変奏や、即興曲D899-2に聴かれる三連符の流れるようなパッセージの、ビロードのように滑らかで繊細なタッチと絶妙なペダリングが印象的だった!)を聴きながら、そのように感じたのだった。
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