京都・プラハ姉妹都市提携20周年記念事業
プラハ交響楽団
【日時】
2017年3月14日(火) 19:00 開演 (18:15 開場)
【会場】
京都コンサートホール 大ホール
【演奏】
指揮:ペトル・アルトリヒテル
管弦楽:プラハ交響楽団
【プログラム】
スメタナ:連作交響詩「わが祖国」
第1曲 ヴィシェフラド(高い城)
第2曲 ヴルタヴァ(モルダウ)
第3曲 シャールカ
第4曲 ボヘミアの森と草原から
第5曲 ターボル
第6曲 ブラニーク
プラハ交響楽団によるスメタナ「わが祖国」を聴きに行った。
京都とプラハの姉妹都市提携20周年記念のコンサートであるらしい。
私は、ある曲を演奏するとき、その曲の作曲者と同郷の指揮者、および同郷のオーケストラによる演奏でなければ、その曲を真の意味で表現することはできない、という考え方とは、遠いところにいる。
しかし、「わが祖国」に関する限り、私は結果的に同郷の演奏家による演奏を好んでいるのだった。
私はまず、ヴァーツラフ・ターリヒ/チェコ・フィルによる1929年の録音を聴いてこの曲を好きになった。
チェコの指揮者の祖であるターリヒは、ベルリン・フィルのコンマスを経験したヴァイオリニストでもあるが、そのときにかの伝説的な指揮者アルトゥール・ニキシュに強い影響を受け、指揮者に転向したという。
彼の指揮にニキシュの影響がどれだけ残っているのかは分からないが、ターリヒのこの「わが祖国」の演奏は素晴らしい。
現代の基準からすると、時代を感じさせる演奏ではあり、重々しいし、また緩急の変化も多く、そういった点では古めかしい演奏ともいえる。
しかし、いくら重々しいテンポであっても、たとえばフルトヴェングラーのようなずっしりぎっしり詰まった緊張感の強い音とは違い、どこか自然で柔らかいのである。
なお、この録音はオーパス蔵というレーベルが復刻していて、ノイズは大きいものの楽音を高い明瞭度で聴くことができ(ピアニッシモで吹くクラリネットの柔らかさまで伝わってくる)、とりわけ素晴らしい。
当時のHMVの録音技術の高さを窺い知ることができる。
他レーベルによる復刻であればナクソスミュージックライブラリーやApple Musicでも聴けるが、音質があまり良くなく、もやっとしていて魅力が半減している。
ともかく、この自然な柔らかさをもつ美しい演奏は、私にとってはかけがえのないものである。
柔らかいながらも表現に大きな起伏があり、強い歓喜がひしひしと伝わってくる。
考えてみれば、彼らチェコ人は何百年もの間ドイツ人に支配され、この演奏が録音されたほんの10年ほど前に、やっと念願の独立を遂げたのである。
それは、ボヘミアの伝説にあるように、「ブラニーク」の山に眠る戦士たちが一斉に復活してチェコの危機を救ったのではなく、苦しい第一次世界大戦の結果ではあったのだが。
そんな彼らのことを考えながら聴くと、また、このさらに10年後に彼らに降りかかる災厄、そしてその後の決して平坦でなかった彼らの長い道のりに思いを馳せると、本当に感極まってしまう。
ところで、ターリヒ/チェコ・フィルには後年の再録音(1954年)もあるのだが、そちらももちろん素晴らしいものの、旧盤に比べるとやや生硬なものとなってしまっている。
これは、ターリヒがあまりにも歳を取ったためかもしれない。
あるいは、この生硬さは、まさかとは思うが、チェコが社会主義国家になったことと関連している、というようなこともありうるのだろうか。
彼らは、このときいったいどのような気持ちで、この「わが祖国」を演奏していたのだろうか…。
それはともかく、ターリヒの「自然な柔らかさ」といった特徴は、同郷の指揮者たち、歯切れの良いカレル・アンチェルや、重厚なラファエル・クーベリックといった、全く違った個性を持つ指揮者たちにも、根底では受け継がれているように思う。
そして、現代においてその特徴を最も強く受け継いでいるのが、名匠ラドミル・エリシュカであり(彼は若き日にターリヒと出会ったという)、その弟子のヤクブ・フルシャではないだろうか。
特に、フルシャ/プラハ・フィルハーモニア盤(2010年「プラハの春」音楽祭のライヴ録音)は、この「自然な柔らかさ」に現代的な洗練が加わり、きわめて完成度の高い名盤となっている(ナクソスミュージックライブラリー、およびApple Musicで聴ける)。
このあまりの美しさの前には、彼自身によるバンベルク響との再録音ですら、これを超えることができなかったように思う。
つまり、ターリヒ/チェコ・フィル1929年盤と、フルシャ/プラハ・フィルハーモニア盤、この2種の同郷の演奏家たちによる録音が、「わが祖国」における私の中での基準となっている。
では、今回のアルトリヒテル/プラハ交響楽団による演奏はどうだったか。
はっきり言ってしまうと、プラハ交響楽団は、普段聴いている日本のオーケストラと比べて格段に優れたオーケストラであるとは感じなかったし、上記2種の録音でのチェコ・フィルやプラハ・フィルハーモニアに比べても、やや劣るような印象を持った。
アルトリヒテルの指揮も、ターリヒやフルシャの演奏に聴かれるような一種の「芸術的な香り」のようなものはあまり感じられず、どちらかというと「愚直」といった印象の強い演奏だった。
しかし、できの悪い演奏だったかというと、全くそうではなかった!
第1曲「ヴィシェフラド」、冒頭のハープからして、何とも柔らかく、そこはかとない情緒を湛えていて、心にすっと入ってくる演奏だった。
この冒頭の主要主題は、その後いろいろな楽器により受け継がれていくのだが、この主要主題を奏するファゴットも柔らかい、フルートも柔らかい、そして弦も本当に柔らかく、かつ自然なテンポ、自然なフレージングで、作為を全く感じさせない。
この主要主題は、繰り返されるたびにどんどん大きく盛り上がっていく。
しかし、それでいて、最後に大きなフォルテ(強音)で奏されるときでさえ、本当に自然な表情づけであり、強い感動を覚えずにはいられなかった。
第2曲「ヴルタヴァ(モルダウ)」、これは大変有名な曲だが、序奏でのフルートとクラリネットによる掛け合い、そしてヴァイオリンにより奏される有名なモルダウの主題、いずれもこれといって特別なことはしないのに、実に程よいテンポかつフレージングなのである。
ポルカの直前で大きくリタルダンドしタメを作るのは、アルトリヒテルの数少ない「特徴的な解釈をした箇所」の一つではあった。
「水の精の舞」における、弱音器を付けたヴァイオリンのメロディも、本当に自然で美しかった。
激しい「聖ヨハネの急流」を経たのち、帰ってくるモルダウの主題は短調から長調に変容しており、単純と言えば単純なのだが、これが実にさわやかな美しさに溢れている。
そして、この曲の終わりにも、先ほどの第1曲「ヴィシェフラド」の主要主題が雄大に再現されるのだが、ここでも全くわざとらしさがなく、きわめて自然に歓喜を叫ぶのである。
第3曲「シャールカ」でも、いかに激しくなろうとも派手な身振りは一切聴かれないし、第4曲「ボヘミアの森と草原から」では特にフガートの部分の美しさと、その後のホルンによる牧歌的なメロディのさわやかさが印象的だった。
第5曲「ターボル」、ここでは今回の全曲中では比較的重めの演奏であったが、それでもやはり極端な解釈にはならず、自然さは失われない。
そして終曲「ブラニーク」、ここでは前半でブラニークの山から目覚めた戦士たちの戦いが描かれる。
後半になるとついに、フス教の讃美歌「汝ら、神の戦士らよ」の一部である「汝はついに神とともに勝利を得るだろう」の旋律とその後楽節が奏され、前曲「ターボル」から登場していたこのメロディの全貌が、ここで初めて明らかになるのである。
彼らは勝利をおさめたのだ。
ここを聴くと、否応なく感動してしまう。
そして、最後は「汝ら、神の戦士らよ」と、第1曲「ヴィシェフラド」の主要主題とが、同時に高らかに奏されることとなる。
彼らは、長い長い苦難の末、ついに彼らの城「ヴィシェフラド」を取り戻したのだ。
こういった、全曲の白眉たるところでも、アルトリヒテル/プラハ交響楽団は、決してこれ見よがしに叫んだり、わざとらしく聴かせたりはせず、常に自然で、柔らかさを忘れないのである。
これまでの長い苦難、そして最後の勝利、そのどちらをひけらかすこともなく、ただ単に、自然な喜びを伝えたいという、質朴でさえあるその気持ちがまっすぐに聴き手に伝わってくるような、そんな感じがする。
細かい点はどうあれ、ターリヒ/チェコ・フィルの頃からのそういった要素、彼らの「自然なる心の叫び」を、アルトリヒテル/プラハ交響楽団もまた、しっかりと受け継いでいる、そう感じたのだった。
私が、自分の意に反して、この「わが祖国」においてはどうしてもチェコの演奏家たちによる演奏に魅かれてしまう、その理由が、今回何となく分かったような気がした。
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